「戦争孤児だったことを言えるようになったのは68歳を過ぎたころ。それまで思い出したくもなかったし、周りや家族にも伝えていませんでした」
そう語るのは、東京・荒川区に住む星野光世さん。
戦争孤児とは、戦争によって保護者を失った子どもである。その数は12万3000人あまりと言われるが、そこに養子縁組した孤児や浮浪児となった孤児は入っておらず、沖縄の孤児も入っていない。
戦争孤児が生まれる背景には太平洋戦争末期、激しさを増す空襲を避けるために、大都市の学童を農山村に避難させる「学童疎開」があった。
東京の下町で蕎麦店の長女だった光世さんは、1944年夏、国民学校5年生のとき、集団疎開に加わった。疎開先は千葉県君津。身重だった母親は、妹と弟を連れて郷里の千葉に疎開し、東京には父と旧制中学に通う兄が残った。
疎開から半年が過ぎた3月10日の朝、お寺の境内に黒い燃えかすが雪のように降ってきた。のちにそれは、大空襲に見舞われた東京から飛んできたものだと知る。
その後間もなく、空襲で生き残った家族が子どもを迎えに来るようになった。生徒の半分が引き取られたころ、母方の叔父が光世さんを迎えに来た。そして、両親と兄、生まれたばかりの妹が死んだことを知らされる。東京にいた父が体調を崩し入院するというので、母も赤ん坊をおぶって上京していたというのだ。
残されたのは11歳の光世さんと8歳の妹と4歳の弟。3人は母方の郷里・千葉県、父方の郷里・新潟県の親戚を転々とする。光世さんらはあからさまに邪魔者扱いされた。
ある日、隣村に住む叔父が光世さんたちを迎えに来た。山を越え叔父の家に着くと、ごちそうを振る舞われ、叔母から「今日からこの家の子になるんだ」と言われた。そこには乳飲み子も含め、6、7人の子どもがいるのに。光世さんは危険を感じ取ったという。
光世さんたちは、夜明け前に叔父の家を抜け出し、見知らぬ暗く深い山道を必死で走り、やっとの思いで祖母の家にたどり着いた。祖母は光世さんたちを見るなり、「何だ! おまえたちは!」と怒鳴ったのだが、黙ってうなだれている3人を見て、逃げてきたと察し、その場に泣き崩れた。当時は孤児が売り飛ばされることもあったのだ。
終戦後、光世さんと妹は千葉の伯父の家に引き取られ、弟は新潟に残った。伯父の家は大農家で、光世さんは農作業を手伝い中学を卒業することなく農業に精を出した。
しかし、20歳を迎えるころ光世さんは独立を考える。
「農業は大好きだったんですが、どうしても生まれ故郷の東京が恋しかった。手伝ってきたのは、育ててもらった“恩返し”のつもりでした」
猛反対を押し切り、光世さんは上京し、まずは住み込みで働いた後、建築事務所に就職。28歳のとき、家具職人の男性と知り合い結婚、子どもにも恵まれた。
数年前に開催された『戦争孤児展』のために、光世さんは初めて孤児体験の絵を描いた。それをきっかけに絵本を作ろうと決意。4年かけて完成したのが『戦争と子どもたち』である。この本には、光世さんの人生の軌跡と、10人の孤児たちの物語が繊細な挿絵とともに収録されている。
「以前は、つらい体験を夜、布団に入ったときに思い出していただけでした。でも、それだけじゃダメだ、と思うようになった。これは、実際にあったことだから、残さなければならない。私たちがいなくなっちゃったら、もう伝えられませんからね」