「野球は巨人、司会は巨泉」
司会者として頭角を現し、一躍売れっ子タレントとなった巨泉さんは10年目の1976年に代表作のひとつTBSの『クイズダービー』をスタートさせる。この放送は出演者が解答者の中から正解すると思う解答者を1人選び、自分の持ち点を賭けて得点を競うという競馬形式のクイズ番組だった。ユニークなしくみと巨泉さんと解答者とのやりとりがウケて人気番組となる。
巨泉さんが解答者にあだ名をつけたのも奏功した。三択問題に強い女優・竹下景子には「三択の女王」、正解率が高い漫画家・はらたいらは「宇宙人」、よく正解するのに最後の問題で間違える漫画家・黒鉄ヒロシには「裏切りダヌキ」など。
当時、番組のプロデューサーだった副島恒次さん(75)は、巨泉さんの仕事ぶりをこう語る。
「巨泉さんはもと放送作家だったので、番組の構成やリズム感を考えながらやっていて、そういう人はあまりいませんでした。
いつも巨泉さんの楽屋で、ディレクターとその日出題するクイズ問題の打ち合わせをしていたんです。巨泉さんが答えを伏せてやってみて、“ああそうか! これ難しいな”“じゃあ、はらくんは何倍くらいかな?”などと言って倍率をつけたり。それが終わると、解答者の楽屋へ行って、さりげなく“景子ちゃんはロンドンとか行ったことあるの?”と、その日が海外ネタだったりするとバレないように聞いてみたり、軽くアイドリングをしていました」
そのころ巨泉さんは静岡県の伊東に住んでいて、週に4日間、東京に来て仕事をしていたという。
「“巨泉は遊んでいるという人がいるけど、そうじゃない。タレントというものは決められた日時にベストコンディションでスタジオに行くものだ”と話していました。そのためにはワインを飲んだり、釣りをやったり、俺には伊東での3日間が必要なのだと。実際、巨泉さんは本番に非常に機嫌よく現れて、よ~~っ!なんて調子でナチュラルハイでしたよ(笑)」
当時のタレントは長い休みが取れないことが一般的だったが、巨泉さんは撮りだめをして夏休みを1か月以上とったので、それにともないスタッフも休暇が取れ、副島さんも毎年、海外旅行を楽しんでいたという。