復興の仕事は先が見えてきた
宮城県石巻市の災害公営住宅(復興住宅)に住む廣瀬文晃さん(38)一家は昨年末、仮設住宅から引っ越した。妻の亜耶子さん(39)と高校3年生の遥さん(18)、フリーターの迅人さん(17)、小学6年生の葉月さん(12)、震災後に生まれた絆太ちゃん(4)と暮らす。
内陸部・河南地区の仮設住宅から市街地の復興住宅を選んだのは、子どもたちが震災前から通っていた学校があるからだ。
次女の葉月さんは、姉・遥さんと兄・迅人さんが通っていた釜小学校の生徒。学校は、津波で一時的に避難した場所にあるが、防潮堤が建設されればシミュレーション上は津波がこない。そこへ内陸部の仮設住宅から6年間、通い続けた。公営住宅では自分の部屋ができたが、「ひとりでは眠れない」と、両親と寝ることも。
学校では最近、「津波を見た?」「どこに避難した?」との会話がある。
「(保育園で一緒に避難した)女の子は津波を見てない。見たら怖かった。津波被害に遭ってない人がそういう話題をする」
と葉月さん。母の亜耶子さんも「震災直後は、津波の話をしていましたが、徐々にしなくなりました。最近になってまた話題が出ます」と話す。
長女・遥さんはこの3月、高校を卒業。小さいころから夢だった仕事に就く。
中部自動車学校に家族で避難したとき、津波を見ているが、友人間で津波の話題はもう出なくなった。
「怖いかよりも、現実かどうかって思っていた。でも、意識してないからか、思い出すことはない」
ただ、生活環境が変わったためか、中学のとき、部屋を暗くして、体育座りをする姿もあったとか。
「きっといろいろあったんだろうけど、心配するようなことはなかった」
と亜耶子さんは振り返る。一方、長男・迅人さんには変化が現れた。
迅人さんは震災時に小5で、中学時代はずっと仮設住宅。友達の多くと離れた。不安定になってもおかしくはない。高校も中退した。
「小学校のころは年齢に関係なく友達になっていた。仮設での生活が要因だったのかも」(亜耶子さん)
父・文晃さんは建築関係の仕事をしている。
「復興の仕事は先が見えてきた。こっち(石巻市の中心部)には仕事がない。気仙沼市や南三陸町に行くこともある。半島部にはツケが回っている」
そのツケは復興住宅建設の差にも表れている。文晃さんの母親は市内の半島部に住むが復興住宅に入れるのは年末になる見込みだ。市によると予定の4700戸中、昨年末時点で入居ずみは73・7%。半島沿岸部に限ると32・8%だけで、「平地が少なく、大規模造成が必要」(市)
復興の度合いは、地域差、個人差が目に見えて出てきている。