私は、母親がエジプトの孤児院に関するボランティア活動をしていたこともあって、10代のころから養子制度の存在について認識していました。もし自分が子どもを授かることのできない身体だった場合、養子をとるかどうかということを考えたりもしていました。

 そんなあるとき、母親から孤児院にいる子どもたちの写真を見せてもらったんですね。するとそこには、幸せそうに笑っている子どもたちが写っていたんです。

 このなかから一人選んで、果たしてその子を幸せにすることができるのかと自分に問うたとき、養子とするよりも、寄付など他の方法をとるべきかなと思ったんです。

 子どもを持てなかったという自分の気持ちを埋めるために、子どもを預かるということはエゴに過ぎないんじゃないかと。

 もちろん、養子をとる場合には、色々なケースがあります。家族内できょうだいなどの夫婦が事故死した場合や、虐待をされている子どもを助けなればならない場合など、必要に迫られてとる場合もありますよね。

 今回の“養育里親”のケースも、どの様な状況で受け入れられたのかはわかりません。ただ一人の子どもを預かるということは、一人の人生を預かるということです。

 セクシャルマイノリティの受け入れ環境が整っていない日本で、このカップルに預けられることを子ども自身がどれだけ理解し、どれだけ本人の意思で判断できたのか、こうした疑問も私には払拭できないところがあります。

 そしてなにより今回の“養育里親”認定が「セクシャルマイノリティへの理解を広げるきっかけになる! どんどん進めるべきだ!」という声を聞くことに不安を感じます。セクシャルマイノリティへの理解という願望のために、預けられる子どもの人生を利用してはいけないと思うのです。

 しかし、今回のケースは、多くの人びとにセクシャルマイノリティについて課題を投げかけたとは思います。一度冷静になって根本的なところから話し合い、本質的なところでマイノリティを理解し受け入れる社会を目指すべきなんじゃないかな。

<構成・文/岸沙織>