柏原選手の通っていた小学校。学校までは坂道になっており、よく走って上っていたという
柏原選手の通っていた小学校。学校までは坂道になっており、よく走って上っていたという
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地元のみんなが感謝の言葉を

 柏原選手は、陸上部のブログに、こうもつづっている。

《学生時代は人と接するのが怖くて部屋に籠って悩んだ時もありました。実家に帰り何も聞かずに支えてくれた家族や高校の恩師、福島県で陸上競技を指導されている先生方、そして大学に戻った時に何も言わずに迎えてくれた仲間がいたからこそ今まで挫けずに競技を続けられたと思っています》

 地元の店には、柏原選手のサイン入りの写真が飾られ、帰省のたびに前出の寿司店には「おじさんのとこに来ると寿司が食べられるから」と顔を出していたという。

「ただ、引退するまで悩んでるなんてわからなかったなぁ。もったいないって思いもあるけど、ケガがあったらしょうがない。よく頑張ったなと言ってあげたい」と主人。

 前出の喫茶店マスターも、

「いわきは炭鉱の町だったから、閉山してから何も産業がない寂しい町でね。そこに柏原くんが有名になって、パーッと明るい話題をもってきてくれた。いままで本当にありがとうって言ってあげたい」

 みな、感謝を口にする。

 2010年と'12年には、いわき市市民栄誉賞を2度も受賞し、地元が誇る輝かしい選手になったが、卒業後の成績は思うようには伸びなかった。

 社会人の精鋭が集うニューイヤー駅伝では区間賞を取ることはなく、初のフルマラソンでは7位。リオ五輪代表最終選考会を兼ねたびわ湖毎日マラソンでは52位と惨敗。それでも、「(弱音を吐くことは)まったくありませんでした。昔から家では、陸上の話はしませんでしたね。ゲームやアニメが好きで、今も昔もまったく変わっていません」と母親の次枝さん。

 “山の神”と注目を浴び続けていたころは「別の世界に行っちゃうのかなって思いました」と母親ならではの寂しい思いを感じたが、今は改めて「お疲れさま」と言葉をかけたいという。そして、

「親以上に息子を支えてくれた周りの人に感謝しかありません。親として竜二にできる限りのことはしてきたつもりですが、全然足りていなかったように感じています」

 と寂しげな表情を見せた。

 富士通陸上部では柏原選手を含め5人の選手が年度末に引退し、翌4月1日付で8人の新戦力が加入した。襷は受け継がれる。