3年ほど前に発覚した、子どもの取り違え事件を覚えていますか?
本来は裕福な家庭で育つはずだった男性は、取り違えにより貧しい家庭で育つことに。その結果、人生にさまざまな不利が生じました。東京地方裁判所は産院の過失を認め、男性に、総額3800万円の賠償金を支払うことを命じたのです。
こんな子どもの取り違えを、産んだ母親みずからが行ったら、親は、子どもはどうなるのか? 犯行に至るまでの心理と、その後の生活を、緊迫感あふれる小説に仕上げたのが『貘の耳たぶ』(幻冬舎)です。
取り違えを実の母親がしたとしたら……
本書執筆の動機を、著者の芦沢央さんが語ります。
「女性って、子どもを産めば、すぐ母性が芽生えるものと思われがちですよね。“本当にそうだろうか?”と疑問に思ったのが、執筆の出発点でした」
冒頭で描かれるのは、帝王切開で出産した繭子が、術後の痛みに耐えながら新生児室へと向かうシーン。並んだ新生児の中で一番小さなわが子と対峙した繭子が抱いたのは、退院後に待つ子育てへの不安でした。
そして繭子は、いくつかの要因が重なったことで、妊娠中に両親学級で知り合って以来、親しくしていた郁絵の赤ちゃんと自分の子を取り替えてしまうのです。
衝撃的なこのシーンには、自身の2回の出産体験が反映されていると芦沢さん。
「私自身、1人目の子を出産した際に“こんなにもか弱い生き物を自分が育てることができるんだろうか”と不安を覚えたことがありました。その産院では産婦同士の交流が盛んだったこともあって、互いに不安や悩みを共有しているうちに気持ちを切り替えられたんですが、2人目を産んだときは他の産婦と話す機会がほとんどなかったんです。
2人目だったこともあってそれほど不安を覚えることも少なかったのですが、もしこれが1人目のときだったらもう少し追い詰められていたかもしれないと思ったとき、たまたま自分の子どもの足首からネームタグがはずれていたんですね。その瞬間、いろんなことが紙一重だったんじゃないかと思うようになって、それまで温めていたアイデアが動き始めたんです」