中日ドラゴンズのエースとして活躍し、引退後は中日・阪神タイガース・楽天イーグルスの3球団と、北京五輪日本代表の監督を務めた星野仙一さん(70)は、今年1月4日にこの世を去った。すい臓がんだった。
“人生の1%をボランティアに捧げろ”
「昨年12月1日には、大阪でご本人の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われました。これが最後の公の場。11月28日には東京でも殿堂入りを祝うパーティーが行われていて、メジャーリーグで活躍する田中将大選手も駆けつけました。元気な姿を見ていただけに、急逝の一報には驚きましたね」(スポーツ紙記者)
闘病中だったことは、家族と楽天球団のごく一部の人しか知らなかったという。
「'16年7月に余命90日という宣告を受けてから、1年半も生きてくれました。最期は転移もしていたようです。12月のパーティーは、いま思えば、たしかにほっそりしていたというふうに思いますね」(同・スポーツ紙記者)
現役時代から“闘将”と呼ばれていた星野さん。人に弱みを見せないその姿勢は、'02年に阪神の監督を務めた際、因縁の開幕戦でも見せていた。
「試合後半、リードしているさなかで不整脈が起こり、裏で軽い応急処置を受けたんです。直後にベンチに戻り、何事もなかったかのように完投した投手を抱きしめていましたね」(スポーツライター)
選手には厳しい態度や姿勢で指導にあたったが、一方で心優しい紳士としての顔も。
「星野監督は、選手にずっと“人生の1%をボランティアに捧げろ”と教えていたといいます。
'11年に東日本大震災が起こり、宮城県が被災した際は、午前中に被災地を選手とともに訪れ、午後は球場に戻って試合というスケジュールを繰り返していました」(同・スポーツライター)
その年は5位と低迷したが、2年後には初の日本一に輝き、地元のファンたちを勇気づけたのは、言うまでもない。星野さんは、こういったボランティア活動に昔から力を入れていて、
「地元・岡山県の障がい児童施設との交流を30年以上も続けていました。ティーボールと呼ばれる障がい者スポーツの交流会も主催しており、そこへ熊本県や福島県の被災児童を呼ぶこともありましたね。
“つらい思いをした人たちが、俺たちの野球帽を10個とか20個とか、そんなもんしかあげられなくても元気になってもらえるんだから。やらなきゃだめだろうが”とゲキを飛ばしていたのを聞いたことがあります」(同・スポーツライター)
今年11月には西日本豪雨の被災者支援として、楽天球団が岡山県倉敷市に寄付を行っている。
「星野さんにゆかりのある、ご家族と『星野仙一記念館』も寄付をしたそうです。阪神も、兵庫県下の全小学校にティーボール用具を寄贈しています」(同・スポーツライター)
闘将の教えは、今も選手の胸で熱く燃えている─。