学校も教育委員会も児童相談所も、栗原勇一郎容疑者(41)にとってはたやすい交渉相手だったのだろう。そろいもそろって脅しに屈していたことが次々に判明しているからだ。千葉県野田市の小学4年、栗原心愛さん(10)が自宅浴室で死亡し、父親の勇一郎容疑者と母親のなぎさ容疑者(31)が県警野田署に傷害容疑で逮捕された虐待死事件。心愛さんが亡くなって20日あまりが過ぎたが、日ごとに最善の手を打ちそびれた大人たちの姿が浮かび上がる。

 勇一郎容疑者の暴力性と紳士的な人当たりという二面性が、関係者を翻弄した。

 心愛さんが亡くなる直前に通っていた二ツ塚小学校の校長は、容疑者の態度について、

「いつも紳士的でした」

 と表現している。さらに、

「(容疑者に最後に会ったのは)昨年12月12日の個人面談です。両親と(心愛さんの)妹と来ました。穏やかな様子で、虐待の兆候は見抜けませんでした」

 と付け加える。教育者も騙される“紳士的”な振る舞い。

心愛さんが亡くなった浴室と同型の浴室。アパートの別の部屋で撮影
心愛さんが亡くなった浴室と同型の浴室。アパートの別の部屋で撮影

 そんな父親の暗黒を勇気をもって告発したのが、心愛さんだった。当時通っていた学校のいじめのアンケートに《お父さんにぼう力を受けています。(中略)先生、どうにかできませんか》と記入。家の外の大人に、初めて助けを求めたのは’17年11月6日のことだった。

 それがきっかけで翌7日、県柏児童相談所(以下、柏児相)が一時保護に踏み切った。

 ところが容疑者は学校側のこの判断を根に持ち、心愛さんを転校させてしまう。児相に詰め寄り何度も面談した結果なのか、柏児相の一時保護は12月27日と早くに解除され、心愛さんは親族宅で養育されることになった。

「世帯が別なので、(父親の)暴力が起きないと考えました」

 と柏児相。勇一郎容疑者の本性を見抜けぬころの判断で、

「(父親の接近禁止は)設けていません。学校とも協力体制を作り見守りができていました。何かあればすぐに介入できるので大丈夫だと」(同)

 勇一郎容疑者が、周囲に牙をむいたのは’18年1月12日のこと。学校と市教委、両親による三者面談の席上だった。

「非常に威圧的で“名誉毀損で訴える”“家族を引き離すのか”と言われまして……」(山崎小学校教頭)

 学校側は恐怖し、心愛さんを保護する際は父親に情報を公開するという「念書」まで書いて手渡してしまったのだ。

 成功体験に味を占めた勇一郎容疑者は、今度は市教委の担当者を脅しに出た。持参したのは、心愛さんが書いたとする自筆の委任状。自分の書いたアンケートを父親に見せていい、という内容だった。

謝罪する野田市の鈴木有市長(左から2人目)ら(1月31日)
謝罪する野田市の鈴木有市長(左から2人目)ら(1月31日)

「心に引っかかりがあった」としながらも、結果的にアンケートのコピーを渡してしまった市教委の担当者は会見で「恐怖を感じた」と、勇一郎容疑者に屈したことを認め、

「(渡したことで威圧から逃れ)安心感があった」

 と正直に口にした。

 さて、次なる標的は、憎き児相だ。心愛さんが書いたとする《お父さんにたたかれたというのはうそです。(中略)早く4人で暮らしたいと思っていました。お父さんに早く会いたいです》という懇願が交渉材料だった。

 児相の担当者は、

「学校へはちゃんと通っていましたし、元気な様子だと報告を受けていた。見守りの体制もできていた」

 その結果、心愛さんは2月28日に自宅に戻ることになった。だが児相がその後、心愛さんに会ったのは1回だけ。家庭訪問もしなかった。職務怠慢。その理由がまことに弱腰で、

「両親が児相に不信感を持ち(面談や訪問を)拒否されていたので、無理やり自宅に行くと子どもの安全が脅かされるおそれがあると判断し、あえて行かない形を取りました」(前出・児相の担当者)