2月22日に老衰のためこの世を去った落語家の笑福亭松之助さん。上方落語家では最高齢だった師匠は、昨年11月から体調を崩して兵庫県西宮市内の病院に入院。一時は危篤状態から持ち直したものの帰らぬ人となった。
「松之助師匠といえば落語家としてだけでなく、吉本新喜劇の脚本や演出なども担当。また、俳優としてもNHKの朝ドラ『まんてん』『わかば』などに出演したり、テレビ朝日系の『ニュースステーション』ではコメンテーターを務めたりと、マルチな活躍をされました。それ以上に、やはり明石家さんまさんの師匠として有名ですね」(スポーツ紙記者)
昨年11月ごろに桂文枝から松之助さんが危篤状態だと知らされ、さんまは、東京から会いに行ったという。
2月23日に行われた舞台『さんま・岡村の花の駐在さん』で、さんまは、
「オレ、東京から急いで行ったら、すっごい元気で。師匠から“おまえに弱っているとこ見せたくないねん!”と帰らされた」
と、師匠と弟子の最後の別れを明かしていた。
「実は'15年に松之助師匠が入院したときにも、さんまさんが病院に駆けつけたんですが、“何しに来た。帰れ”と追い返されたそうなんです。師匠は自分の弱いところを見せたくなかったようで、彼が帰ったあとに正座して涙を流してしまって、掃除の人にモップでふいてもらったと明かして笑い話に変えたこともありました。
東京と上方で離れていても、さんまさんはいつも師匠のことを気にかけていましたし、“帰れ”と口では言っていても、最後に愛弟子の顔を見ることができて本当にうれしかったでしょうね」(吉本興業関係者)
まだ関西芸人が東京では成功しないと言われた時代に、大阪から上京して大ブレイク。テレビ界に君臨する“お笑いモンスター”になっても、師匠の愛は変わらなかった。
弟子入りを志願した驚きの動機
「有名になったあとも、松之助師匠は、さんまさんに週に1通は手紙を出していたんです。内容は、読んだ本で感動したことや、仕事で参考になること、禅の話など。東京でブレイクしてしばらくしたころ、さんまさんが週刊誌の『わたしの宝物』というコーナーで、師匠からの手紙を宝物として紹介したんです。
それを師匠は“ありがたいことだ”と周囲に話していて、離れていても手紙を通じて師弟関係が続いていたんです。だからなのか、師匠の前で、さんまさんは決してイスなどには座らず、いつも直立不動だったそうですよ」(芸能レポーター)
そんなさんまが入門したのは高校3年生のときのこと。そのときの様子を松之助さんは自身の著書『草や木のように生きられたら』(ヨシモトブックス)でこう回想している。