なにかしらの障がいをもっている人は人口の1割はいるといわれています。
しかし、「障がいのある子を授かるかもしれない」と考えて子どもを持つ親は、はたしてどれくらいいるのでしょうか。
私は、障がいをもったわが子からたくさんのことを学び、障がいのことを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになりました。
そして、自分のもとに障がいのある子がやってきても、自然に受け入れることができるようになってほしいと心から思います。受け入れることで、親も子どもも幸せな日々が早くやってくると思うのです。
障がいのある子を育てるということ
私が障がい児と初めて出会ったのは、22歳のとき、わが子としてやってきた長男・千晃でした。
胎盤早期剥離の状態で生まれた千晃は、うぶ声も上げず全身チアノーゼで紫色をしていました。不自然に突き出たおでこのわが子は、口からミルクを飲むことができないため、鼻から管を通して授乳していたのです。
自分の子どもだということが信じらず、夢であってほしいと願ってしまうほどに。そして、ほかのお子さんと“違う”けれど、いつかは“同じ”になると信じて育てていました。
しかし、風邪で小児科にかかった際、大きな病院で診てもらうことをすすめられ、いくつかの病院に行くこととなりました。
1か所目の病院では、たくさんの検査の後、「脳性麻痺です。大切に育ててください」とだけ指導されました。
2か所目の病院では、「水頭症」と診断され、頭に注射器を刺して水を抜くという治療を受けましたが、水はなく、効果もありませんでした。
そして3か所目の病院で「三角頭蓋」という病名を知るお医者さんと出会ったのです。脳の前頭葉は生後3か月の間に急速に成長する。しかし狭まったおでこでは成長は阻害され、子どもは障がいを持つことになると知らされたのでした。
そのとき、すでに千晃は4か月を過ぎていました。もう前頭葉を広げる手術をしても手遅れだったのです。医療機関に対する不信感と、早く行動しなかった自分の未熟さを責めました。悔やんでも取り返しのつかないつらい告知でした。
生後8か月のときに、形だけのことかもしれないが、発達の望みも込めて「おでこの左右の骨を入れ替える」という手術を6時間かけて行いました。しかし、大きな変化はなく、私は障がい児の母親となりました。
身体的にも知的にも目にも耳にも、数々の不自由を抱えた長男でしたが、天使のように輝く笑顔を持っていました。その笑顔が私の生きる支えとなり、ともに生きていく喜びをくれるものでした。
天使のように笑う千晃は、「基底細胞母斑症候群」で歯を14本失ったり、てんかん発作で倒れてケガをしたりと多くの病にかかりました。けれど、彼は「苦しい」「痛い」「嫌だ」というような言葉を口にすることはなく、自分に与えられたことを淡々と受け入れているように感じました。
笑顔を絶やさず、人を責めない生き方をする千晃の笑顔に、私はいつも力づけられていました。
それから、彼が生きやすい社会を作ることが私に課せられたことであり、私の生きる指標だと信じていました。