8月22日に亡くなった内海桂子さん(享年97)。

「死ぬ間際になっても、ハーハーフーフー苦しむことなく、目をつむる寸前まで私は元気だと思う。92歳にもなれば、具合が悪い日だってありますよ。でもね、弱音は絶対吐かない。年をとったからって、自分を甘やかしちゃダメなんです」

 内海さんが5年前、『週刊女性』に語っていた独自の“死生観”とはーー。

働いて稼ぐことは当たり前だから

 私の学歴は小学校3年生中退。母親が実父と別れて、実家の理髪店で働いていた職人さんと再婚したんだけど、その人の稼ぎじゃ家を借りる敷金20円が払えない。だから「私が奉公に出ると言って、神田のそば屋で働き始めました
 
 仕事は3つ下の坊ちゃんの子守り。数えの10歳で親を助けていたんですね。4回結婚した母は、いくらお金を渡しても1週間で「なくなっちゃった」と言う人でね。でも、恨んだりはしていません。働いて稼ぐことは当たり前だと思っていたから

 12歳のとき、「生きていくためには何か習い事をしたほうがいい」と母にすすめられて、三味線と踊りを習いました。月謝は自分で稼ぎます

 近所の鼻緒屋さんで下駄や前壷を糸で留める仕事をして1日10銭。ひと月3円稼いで、月謝に1円50銭。残りは全部親にあげました。そのうち、近所の芸人夫婦から三味線と踊りの腕を見込まれて、地方巡業に連れて行ってもらえることになったこれが漫才師になった原点ですよ

 最初は靴を並べたり、洗濯をしたり、世話をしているだけでちっとも芸人にしてくれなくてね。念願の漫才初舞台は、妊娠した奥さんの代役打ち合わせもなく、突然だったけど、16歳でデビューできました

 ところが、浮世の苦労は続くもの。地方を一緒にまわるうち、相方にお手つきにされて19歳で子どもができた。24歳のときも父親のちがう子を出産したけど、稼いだ金を全部ヒロポン(*)に使っちゃうような男でね。

 *ヒロポン=太平洋戦争下に使用した覚せい剤の一種