1999年、ポカリスエットのCMソングに『Sunny Day Sunday』 が起用されヒットしたセンチメンタル・バス。アフロヘアが印象的なボーカル・NATSUとともに活躍したのが、キーボードの鈴木秋則だ。
「音楽の専門学校の同級生で、授業のために組んだバンドで一緒だったんです。NATSUのキャラクターがよかったから、行けるところまで続けてみよう……と思っていたのですが、どんどんメンバーが抜けていって、最終的に2人になったという感じです」
もともとゲーム・ミュージックを作る仕事がしたくて専門学校に入学したこともあり、卒業後はバンド活動を続けながらサポートミュージシャンとしての仕事も開始する。
「当時まだ一般的でなかったマッキントッシュを持っていたことで、専門学校の先生にWANDSのマニピュレーター(打ち込みサウンドをバンド演奏の中に取り入れて、コンピューターを操作する担当)のお仕事を紹介してもらえたんです。
学生時代の僕は売れているものに対して批判的な尖った若者だったのですが、本当に売れている人たちの現場を目の当たりにしたことで、考え方がガラリと変わって。自分たちが作っている音楽が広く届くということのすごさがわかったので、自分もそうなりたいと思うようになりました」
ソニー社員だったジェーン・スー
その後も人気ロックバンド・黒夢のサポートメンバーとして武道館のステージを経験。その活動で知り合った音楽関係者の目にとまり、エイベックス系列の音楽事務所への所属が決定する。
「NATSUは別ルートでソニーのオーディションで引っかかっていて。それでエイベックス所属のまま、レーベルはソニーという形でデビューすることになりました」
1998年に『よわむしのぬけがら』でメジャーデビューを果たしたものの、3枚目のシングルまではオリコン圏外……と苦戦する日々が続いた。ブレイクのきっかけを作ったのは著書『生きるとか死ぬとか父親とか』がドラマ化されるなど、いま話題になっているコラムニストのジェーン・スーだった。
「彼女がソニーの社員で、僕らの宣伝担当だったんです。当時は10代の女の子に人気の音楽が時代をリードする……という風潮があったので、10代の女性向けファッション誌の企画にNATSUを売り込み、企画でアフロヘアにしたんです。
ある日、現場に行ったら彼女がアフロになっていたけど、目立つしいいじゃん! と好意的に受け入れました。このエピソードは最近、ジェーン・スーさんご本人がライブ配信で話しているのを聞いて、初めて知ったんですけどね(笑)」
イメージチェンジをして最初のシングルが『Sunny Day Sunday』だった。
「作曲し始めるときに決めた作品テーマ“野球+ロック”が表現できていればそれでよし! と振り切ったために、自分の電子オルガンの鍵盤演奏パートが間奏7小節しかないんです。テーマどおりで満足だったのですが、後からシングル作品として発表することが決まって。
歌番組に出演したときには、ステージで自分がやることがほとんどないと焦りましたね(笑)。大太鼓を叩きまくって大暴れしている印象だと思いますが、その理由はやることがなかったからなんです」