かつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、そして当時は言えなかった本音とは? 第27回は、きょうだいグループ・フィンガー5のメインボーカルとして一世を風靡した晃。救急車で何度も運ばれ、点滴を打ってコンサートをしていた少年時代から、突然の芸能活動休止、サラリーマン転職を経て学んだこととは。
「当時を振り返ると、まるでジェット機に乗っていたような感じだったね」
'73年に発売した『個人授業』が100万枚を超える大ヒットとなり、一世を風靡したきょうだいグループ・フィンガー5。そのハイトーンボイスでメインボーカルを務めていたのが、四男の晃。彼の音楽ルーツは日本返還前だった地元・沖縄での活動だった。
「父親が米軍基地に勤めるアメリカ人向けのAサイン(米軍公認)バーをやっていたこともあり、アメリカの音楽が身近だったんです。それで上の3人の兄貴がそのバーでバンド演奏をするようになって、“そんなに上手なら東京に行ってみたら? ”というアドバイスを真に受けて、家族で上京することにしたんです」
せっかく東京にきたから
当時、沖縄から県外に出るときはパスポートが必要な時代。活動を行うための就労ビザが下りるまで1年ほどかかったという。
「まったくコネも人脈もない状況で東京に来たから、最初は米軍基地で歌っていたんだ。当時は子ども=童謡を歌うという時代だったから、洋楽に影響を受けた音楽をやっている俺らはまったく需要がなかった。でもせっかく東京に来たから……と、同じ沖縄出身で東京ですでに活躍していた仲宗根美樹さんを頼ることにしたんだ」
『紅白歌合戦』に出場するなど、沖縄出身歌手の先駆者的存在だった仲宗根の紹介もあり、『ベイビー・ブラザーズ』名義で同じレコード会社からレコードを発売できることに。そして噂を聞きつけた音楽プロデューサーの目に留まり、バンド名を変え、フィンガー5として再デビューすることになる。
「最初はバンド形式だったけど、ダンスを入れたほうがいいと半年かけてレッスン。それで阿久悠先生たちを前に披露したところ気に入ってもらえて、『個人授業』をリリースすることに」
再デビューが決まったものの、当時あった音楽番組のオーディションでは落選する日々が続いたという。
「ようやく決まったNHKの番組に出たら、電話がパンクするぐらい反響があったみたい。それで今度はNHKラジオの番組に出たんだけど、リハーサルで布施明さんがかけていた大きなサングラスがカッコよく見えて。それで本番までの間にデパートに買いに行って、本番でかけたんだ。ラジオだからリスナーには見えないんだけど(笑)。そしたらプロデューサーが気に入って、そこから俺のトレードマークになったんだよね」