卓球の伊藤美誠がW快挙! 五輪前半で、金と銅の2つのメダルを獲得した。
「7月26日に行われた新種目の混合ダブルスでは水谷隼選手との“みまじゅん”ペアで優勝。五輪での金メダル獲得は、日本の卓球史上初です。そして、29日の女子シングルスでは銅メダル。女子シングルスのメダルも史上初のこと。一気に歴史を塗り替えましたね」(スポーツ紙記者)
水谷と伊藤はともに静岡県磐田市の出身。地元では明るいニュースに大盛り上がり。市役所の正面入り口には、ふたりの金メダルを祝福する横断幕が掲げられた。
「パブリックビューイングはできなかったので、試合は少数の関係者で観戦して応援しました。“一緒に応援できなかった市民の方々にも見てもらおう”と考えて、市役所1階に両選手の活躍を紹介する展示スペースを手作りで設けました」(磐田市役所スポーツ振興課・萩原理帆さん)
磐田駅前の商店街では、喜びのあまり“金メダルを記念して全商品1割引きキャンペーン”を始めたお店も。
「女子団体が銅メダルを獲得したリオ五輪のときは、パレードに3万人が集まりました。今回は磐田市出身の2人がそろって金メダル。コロナ禍だけど、対策してなんとか祝福する場をつくってもらえるとうれしいね」(地元の酒店『酒ないとう』店主・内藤晴夫さん)
輝かしい偉業を達成したが、伊藤は満足していない。
「シングルスの試合後に流した涙は、悔し涙だったようです。インタビューでは“3位決定戦で勝ったことはうれしいですけど、正直、悔しい気持ちのほうが大きい”と話していました。あくまでも目標は世界のトップなんです」(前出・スポーツ紙記者)
学校の授業にも“全力プレー”
伊藤の母校・磐田北小学校で4年生と6年生のときに担任を務めた磯部恭史先生は、彼女は子どものころから負けず嫌いだったと話す。
「手を抜くことが嫌いで、勉強や学校の行事をよく頑張っていました。体育のドッジボールでも全力で取り組むので、“ケガをしたら大変”と心配になるほど(笑)。大きな大会の前はハラハラしていました。前向きな姿勢は昔から変わっていないと思います。思ったことはちゃんと言葉にして、一度決めたことをやり抜ける子でした。“ブレるとプレーが崩れてしまう”という考えが自然と日常生活にも根付いていたんでしょうね」
当時から天才卓球少女として有名だったが、学校ではごく普通の小学生だったとも。
「卓球をやっているから学校生活はほどほどに……、なんてことはいっさいなくって。大きな試合を終えた後でも、休まずに授業を受けていました。親御さんも“なるべく学校へ通い、普通の小学生としてのびのび過ごしてほしい”という考え方。彼女が有名な卓球選手だと知らない同級生もいたと思いますよ」(磯部先生、以下同)
そのころから伊藤は、はっきりとした目標を持って努力を重ねていた。
「卒業文集では“将来の夢”というページがあったのですが、美誠さんはすでに“オリンピックで金メダル”と書いていたんです。私が想像していた以上のスピードで夢を叶えました」
20歳の伊藤は、まだ夢の途中。悔し涙を糧に、さらなる高みを目指していく。