目次
Page 1
ー 作曲家・岡千秋さんが評する異例の新人演歌歌手 ー 母とともに青酸カリで心中しようと…
Page 2
ー 「神様は本当にいるんだな」
Page 3
ー 女性たちの助けがあったからこそ、ここまでこれた ー “パブコンパ”“カラオケルーム”……負けず嫌いが商才に
Page 4
ー 常に極貧時代を思い出し、堅実に生きる
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ー 運命の出会いから“歌手・金嶋昭夫”が誕生
Page 6
ー 作曲を岡千秋、作詞を石原信一が務める ー 社会に恩を返す“恩送り”の人生を歩み続けたい
Page 7
ー 事業家として、歌手として、できることを模索し続けたい

 

 こんなに楽しそうに、気持ちよく歌う人がいるんだな―。そのステージを見ると、誰もがきっとそう思うに違いない。76歳でデビューした金嶋昭夫さんは、誰よりも幸せそうに歌を歌う。

「とても素敵な歌い方をなさっている。人間味でしょうね。ご自身の性格そのものが、声に表れている」

作曲家・岡千秋さんが評する異例の新人演歌歌手

演歌歌手・金嶋昭夫(78)撮影/伊藤和幸
演歌歌手・金嶋昭夫(78)撮影/伊藤和幸

『長良川艶歌』(五木ひろし)、『波止場しぐれ』(石川さゆり)などの楽曲を手がけた作曲家の岡千秋さんは、異例の新人演歌歌手をそう評する。

「私の人生に、『歌手になる』という予定はなかったんです」

 金嶋さんが笑って答える。確かに、遅咲きというにも、あまりにデビューが遅すぎる。

「この年になって、まさか“新人”を体験することになるなんて思いませんでした、ははは!」

 御年78歳。実年齢を聞いても、おそらく誰も信じない。少年のような笑顔は、70代にはとても見えないからだ。

 金嶋さんの本業は、実業家だ。東京・新宿などでカラオケチェーン『カラオケ747』を展開する金嶋観光グループの会長であり、日本に初めて、カラオケボックスの前身「カラオケルーム」をオープンさせたのが、何を隠そう金嶋昭夫その人だ。

 今、そのカラオケに自分の曲が入っている。

「人生は何が起こるかわかりません。多くの方に助けられて、今があります。たくさんの恩を受けてきましたから、今度は私が恩を返す番。多くの方々、社会に恩を返していくことを“恩送り”というのですが、私はこの響きをとても気に入っているんです」(金嶋さん、以下同)

 その言葉どおり、金嶋さんは、養護施設や復興事業支援に寄付活動を行う篤志家でもある。そして、演歌歌手として全国に歌を届けている。実業家と演歌歌手。社会にインパクトを与える二刀流は、ここにもいる。

 岡さんは、先の言葉の後に、こう付け加える。

「われわれの世界に、年齢は関係ないんですね。歌には人間性が出ます。その人、その年でしか出せない味があるんです」

 どのようにして事業を始め、歌手になったのか。響きわたる歌声には、金嶋昭夫の人生模様が宿っている。

母とともに青酸カリで心中しようと…

貧しかったため、子どものころは「写真を撮ってもらう余裕などなかった」と言う。見聞を広めるため、事業を始めてからは海外へよく旅行するようになった
貧しかったため、子どものころは「写真を撮ってもらう余裕などなかった」と言う。見聞を広めるため、事業を始めてからは海外へよく旅行するようになった

 茨城県下館町(現・筑西市)の6人きょうだいの次男として生まれた。父母は、韓国にルーツを持つ、在日1世だった。

「まったく働かない。お酒を飲んでいる姿しか見たことがなかった」。金嶋さんが振り返る父の姿は、酒におぼれたあげく、母に手を上げる……そんな思い出したくない光景ばかりだったという。

「母が朝から晩まで必死に働いて、私たちきょうだいを育ててくれました。おのずと、いつか母を幸せにしてあげたいという思いが募っていった」

 母に親孝行したい─、極貧の中、その一心だけで生きてきた。ところが小学3年生のとき、

「『母ちゃんはもう疲れた。母ちゃん一人が死んだら、残ったおまえたちが父ちゃんにいじめられる。これを飲んで一緒に死のう』、そう母から告げられ、青酸カリを混ぜた水を差し出されました。姉がそれを口元に近づけると、私は慌てて制止した。『生きていれば、いつかいいことがある』。母に叫んだことを覚えています」

 母がまた同じことをするのではないかと、その後、怖くて眠ることができなかった。一家の行く末は、風前の灯火だった。