俳優として活躍した阿藤快さんが帰らぬ人となった。急に連絡が取れなくなったので11月15日に阿藤さんの妹と事務所関係者が自宅を訪れると、布団の中で眠るように横たわっていたという。
死因は大動脈破裂胸腔内出血。亡くなったとみられる11月14日は、阿藤さんの69回目の誕生日だった。誰も異変に気づくことができなかったのは、都内マンションでひとり暮らしをしていたから。
阿藤さんの自宅近くにあった豆腐店の元店主が話してくれた。
「仕事帰りによく来ていただいて、油揚げを買っていかれることが多かったですね。ふと、“あのタワーマンションの30階に住まれているって噂で聞いたんですが?”と聞いてみたら“いやいや、そんな高いところに住んだら空気が薄くて具合悪くなっちゃうから7階に住んでいるよ”と教えてくれましたね」
町の人々にもフレンドリーに接していたようだ。気さくな人柄は『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系)のレポートでよく知られている。
「阿藤さんは『ぶらり』に60回以上も出演した“常連旅人”でした。今では俳優が旅番組やグルメ企画でレポートするのは普通ですが、昔は“役者がレポーターをやるなんて……”と言われたものです。阿藤さんは先駆け的な存在ですね」(ワイドショースタッフ)
最近でこそレポーター業が目立っていた阿藤さんだが、多くの映画やドラマに出演している。ただ、最初から役者を目指していたわけではない。
「中学時代は長嶋茂雄に憧れて、プロ野球選手を目指していました。でも、入学した県立高校には硬式野球部がなかったので、プロ野球選手になることはあきらめたそうです」(阿藤の友人)
阿藤さんは一転して司法の道を目指す。冤罪事件で活躍した弁護士に感動し、法学部に入ろうと受験勉強にいそしんだ。しかし、がんに倒れた父親の看病を優先して一浪。
翌年は見事、東京都立大学の法学部に合格した。大学に入ると司法試験突破のために猛勉強を開始する。
でも、楽勝だったはずの一般教養の単位を落としたことで、弁護士もあきらめた。人生で2度の“途中下車”を経験したわけだが、思いがけない道が開ける。
「4年生のときに、ふと目にした広告を見て、蜷川幸雄の演出する芝居のエキストラに応募。そこで出会った人から誘われて『俳優座』の試験を受けると、500~600人から選ばれた6人の中に阿藤さんが入りました」(芸能プロ関係者)
役者の道に“ぶらり”と入ったわけだ。俳優座では、最初は舞台裏の雑用係だった。
「そのころ、俳優座には原田芳雄さんや中村敦夫さんがいて、阿藤さんは中村さんから“おまえ、役者やらないか”と誘いを受けたようです。初舞台の評判は上々で、共演した原田さんから、“一緒にやっていこう”と励まされたそうです」(前出・芸能プロ関係者)
俳優座を退団した阿藤さんは、原田さんとともに映画に出演するようになる。最初は悪役が多かったが、黒澤明監督の映画『影武者』では武田信玄の側近を演じた。
'88年のドラマ『教師びんびん物語』(フジテレビ系)で主人公の同僚教師役を務めたことから人気を獲得。名脇役とレポーターの両面でテレビに欠かせない存在になり、あのセリフも有名に。
「阿藤さんの“なんだかなぁ”は、決してマイナスな意味だけじゃないんです。驚いたり、いい意味で使うこともあると本人は話していました」(阿藤の知人)