祖父の代から70年以上続く店を営んでいる桜木家具常務取締役の高橋勇樹さん(38)。
「震災の日、僕は花巻に向かうところでした。慌てて陸前高田店を出ようとしたところに“いそぐな”と言った母の言葉が最後に交わした言葉です。何も返事をしなかったこと、今でも後悔しています」
震災当時は県内に3店舗あった。一般の家具だけでなく、国から伝統工芸品に認定されている岩谷堂箪笥の製造販売を行う。
高橋さんは陸前高田で生まれ、高校まで地元で育った。大学卒業後すぐ実家の店で働くように。
徐々に力をつけ、東京のイベントで使用する家具の受注やメディアへの露出も増え、これからさらに躍進を遂げようとしていたそのとき、3月11日を迎えた。
「現実を受け止められず、何が起こったのかわかりませんでした。月明かりが水没した家々を照らし、まるで映画の世界でした」
実家への道は水没して閉ざされており、避難所へと身を寄せた。3日後には避難所で父・勇太郎さん(享年71)と再会できた。
「避難所で母を見たという人もなく、最後に母を見た人は高田店の前にいたという話だけ。しばらくして母の車が出てきたのですが、鍵がスタートの位置になったままでした。逃げようとして流されてしまったのかな」
仲のいい夫婦で母・フサ子さん(享年63)の帰りが遅いと父は寂しさから外に飲みに行くことも。ひとりで過ごすことができない人だったという。
「私は青年会議所の理事をしていたこと、自分だけが苦しいわけではないので、ボランティア活動に力を入れ、母を探しに行くことはなかなかできませんでした。そんな私に父は “ボランティアなんかしてないで、お母さんを探せ”ということもありました」
そんな父も震災年の11月に亡くなった。脳出血だった。
「父が亡くなる1か月前、母が枕元に立って“もう疲れたでしょ、頑張らなくていいよ”って言われたと話していました。迎えに来たのかなって」
母の死亡届も出し、一緒に葬儀を執り行った。フサ子さんは現在も見つかっていない。
陸前高田店と大船渡店は津波で流されたが、被害の少なかった店舗から、家具を調達し、トラックで配達を続けた。
「2013年3月に陸前高田の復興商店街の一角に高田店をオープンしました。1階2階合わせて30坪程度です」
ひとりでもやっていける自信があったと話したが実際は……。
「小さな店舗でしたが想像以上にお客さんが来て、ひとりでは対応するのに精いっぱいでした。同年11月に大船渡店をオープンしました。人を雇うも経験がない新人に任せられず、すべて自分で確認していました。
お客さんから配達はまだかと何度も連絡がきたり……。精神的にも肉体的にもとてもつらく、父母の存在があったからこそできていたんだと改めて実感しました」
だが、これではいけないと従業員の教育に注力し、仕事を任せるようになった。しかし一番の思いは人の信頼を裏切らないことだという。
「小さいころ親には“絶対に人の信頼は裏切るな”と厳しく言われました。両親のなじみ客は今も足を運んでくれては両親の話をします。この店の名に恥じぬようにしなければと気が引き締まる思いです」
現在は陸前高田の仮設住宅に住む。独り身だが、将来は両親と過ごしたような温かい家庭を築きたいと話す。
「孫の顔を見せてあげられなかったこと、それだけが心残りです。40までには結婚したいですね。両親が残した信頼と、私が築いたものを次世代へと伝えていきたいです」