看護師・緒方麻理子さん

 いくつもの「想定外」が重なった東日本大震災から間もなく4年――。マグニチュード8級の地震に巨大津波、未曽有の原発事故による爪痕は深く、復興は立ち遅れたまま。いまも8万人がプレハブ仮設住宅での暮らしを強いられている。

「健康相談が、住民が集まるきっかけになっている」

 と集会所の近くに住む佐藤まき子さん(80)。息子とふたり、散歩がてら訪れるのが楽しみだという。同じく関口京子さん(69)も、健康相談会を心待ちにしていると話す。

「病院には月に1回行っているけれど健康相談があると安心。定期的に集まっているせいか、かえって震災後のほうが親密になった。住民同士、声をかけ合って助け合わないとね。ここで生まれたから、どこにも行きたくないの」

 現在の風光明媚な景色からは想像し難いが、3・11の震源は牡鹿半島の東南東130キロ沖にある、太平洋の海底。この辺りは、陸地としては震源にいちばん近い。震災当日は立っていられないほどの激しい揺れが襲い、津波は湾の奥まで押し寄せた。

 小積浜は高台に位置していることから住居が流される被害はなかったものの、相次ぐ余震のなか、水も電気もない暮らしが半年ほど続いたという。

 その影響は現在も進行形だ。小積浜区長を務める阿部長一さん(64)は懸念を隠さない。

「震災後、集落から街へ出て行く人が増え、かつて23世帯いた住民が今では8世帯にまで減りました。地元の小・中学校は休校。はたして戻って来る人がどれだけいるのか。廃校にならなければいいのですが……」

 地盤沈下対策の盛り土も津波対策の防潮堤も、まだ整備中。復興にはほど遠い。

 仮設住宅から復興公営住宅へ移行が進められるなか、自力での生活再建が難しい高齢者らは取り残されるのではないかと危惧されている。宮城県によれば、県内の仮設住宅の入居者で65歳以上の割合は43・8%。ひとり暮らしの高齢世帯率も2割を超え、認知症や要介護者も増加傾向にある。

「今は地域も変わっていく時期。牡鹿では集落ごとに仮設へ入っていたから、これまでは顔なじみばかりだった人も、復興住宅では一から人間関係を作らなければいけなくなる。そうして新たなコミュニティーができるのか、孤立する人が増えるのかまだわかりませんが、この先、移行期ゆえの問題が出てくると思います」(コーディネーター兼リハビリ担当・野津裕二郎さん)

 その一方、震災以降に固定化されてしまった問題もある。

「地震を思い出して眠れない、外に出たくないといった精神的な症状のほか、血圧が高い、ひざが痛いなどの症状は地震直後から続いています。いまや不調が当たり前という状態になってしまった」(野津さん)

 さらに、バスは2時間に1本、牡鹿半島にある病院は1軒だけという環境。その病院へ行くのも、ギリギリまで我慢する「頑張り屋さん」が多い土地柄だ。支援する側がいっそう気を配らない限り、異変が見過ごされてしまう。

 看護師・緒方麻理子さんが住民ひとりひとりと話すよう気を配るのは、そのためだ。

「健康相談会で“どうですか?”と1度聞いたぐらいでは、詳しく話してくれない。こちらが3度、4度と聞き続けてようやく“実はひざがね……”と打ち明けてくれたりする。また体調を崩しやすい方がいて、よく話をうかがってみると、ダンナさんやお子さんのことを気に病んでいたから……ということもありました。キャンナスさんだから、いつもよくしてくれるからと、打ち明けてくれる人もいます」

 継続して取り組んできたからこそ見えてきた、被災者との関係がある。

「思ったように保健師さんに伝えられず、地域と連携を取るうえで悩んだこともありましたが、もう1年は絶対にここで続けたい」(緒方さん)