ミュージカル界の貴公子、輝く
1989年、藝大在学中に劇団四季に合格。翌年25歳で『オペラ座の怪人』ラウル・シャニュイ子爵役に大抜擢された。新人としては異例のことだ。
「ミュージカルは、踊りと芝居もあって当たり前ですが、僕は、クラシックの技法をもって歌うしかなかった」
踊りも芝居も、周りの人がこんなにもできているということに驚き、もがいた。
「でも人間、追い込まれたらいろんなことができちゃうんですね(笑)。舞台の日も決まっていたので、踊らざるをえない。『オペラ座の怪人』は素晴らしい作品だから、なんとしても出たい。その願いがあるからできたのでしょう」
演出家から厳しいダメ出しをされると自分を責め、セリフの感情が理解できなくて苦しんだ。それでも、大きなモチベーションがあった。
「本場のミュージカルを見に行ったんです。ニューヨークのブロードウェイと、イギリスのウエストエンドに。歌もダンスも美術もすべてのレベルがすごく高い。この域にたどりつきたい、本当にミュージカルを志そうと思いました」
劇団四季は、ロングラン公演を続けながら、日本の大都市から、小さな町を回っていった。その発展の時期が、ちょうど石丸幹二の在籍の時期と重なる。石丸は年間200~300公演というステージをこなすようになる。『アスペクツ オブ ラブ』『ウェストサイド物語』『壁抜け男−恋するモンマルトル』『ハムレット』『美女と野獣』など、多くの作品で主演を果たした。
気品のある容姿、こまやかな役作り、誠実な正統派の歌声で、いつしか「ミュージカル界の貴公子」と呼ばれる看板スターとなっていた。
だが、常にメインキャストであり続けるのは、並大抵の努力ではなかった。同じ役に数人がキャスティングされ、「公演当日ベストコンディションでないと役を降ろされる」過酷な環境。
「ロック・クライミングのように、手を離せばいつでも降りられるけど、下から後輩たちが、どんどん上がってきてる。もう、現場でやりながら必死に学んでいった」
劇団に入って17年目、稽古中に背中に激痛が走り、首も動かなくなる。稽古を休んだら、身体の故障が一気に出て、歩くことも難しくなった。もう高い山を目指すことは、肉体的にムリだと思った。
「心は、背負っていた重圧で押しつぶされそうになっていた。燃え尽きた感じだった」
舞台に立つ意欲もなくしていた。もう1度リセットしよう、新しい人生を出発しよう。
「降りる勇気が必要だ」
2007年12月、42歳で劇団四季を退団する。