海底遺跡の第一発見者として知られる新嵩喜八郎が生まれたのは、1947年6月30日。日本本土が焦土と化していまだ立ち直れないでいたこのころ、最果ての島・与那国島は空前のバブル景気に沸いていた。与那国島を拠点に自由貿易が生まれ、米や砂糖といった食料品が台湾から流れ込み、その見返りに本土から日用雑貨、沖縄本島から米軍の横流れ品が持ち込まれ、与那国一の港・久部良港にはカジキを突く突船(つきせん)と呼ばれる漁船が物資を運ぶためにひしめき合っていた。
「久部良集落の大きめの家は、旅館や倉庫に模様替えされ、久部良の港には料亭や劇場、映画館が立ち並び、米軍流出の自家発電機のおかげで島中が不夜城と化したと聞いています。終戦後わずか3000人にすぎなかった人口が、あっという間に1万5000人に膨れ上がり、私が生まれた年に与那国は村から町に変わりました」
まるで琉球王朝時代の繁栄を思わせるこの時期に、喜八郎の家も大きく躍進する。
「もともと祖父・林太郎が戦前カツオ漁で財を成し、船で台湾から鉄筋を運び事業を大きくしました。屋号は“セメン屋”、鉄筋コンクリートの家を島で最初に建てたのも、ウチだと聞いています」
祖父・林太郎の跡を継いだ父・新一は、島を飛び出して、沖縄本島に渡った。
「おしゃれでハイカラだった父には、与那国島は狭すぎたのでしょう。島の先輩と沖縄で最初の理容学校・沖縄国際高等理容学校を設立しました。当時、理髪師は花形職業でしたから。教材の買い付けに東京にもよく行っていたようです」
島に残された母・しげは、そんな父の留守を守り、小さな旅館「入船」を切り盛りしながら、2人の姉と喜八郎を育てた。
手のつけられないやんちゃ坊主
与那国島で一番大きな集落である祖内で育った喜八郎は、幼いころから“やんちゃ坊主”で知られていた。遠くから水汲(く)みに来る大人たちの桶(おけ)に砂を入れて怒鳴られたことは1度や2度ではない。与那国小学校に上がってからも女の子の机を投げ飛ばして絞られた。近所の子どもたちを砂浜に埋めて泣かせたこともあった。そのたびに母・しげにひっぱたかれた。
「島の女性はみな働き者で気が強かった。中でも母は女手ひとつで子どもを育ててきたせいか、とびきり怖かった」
そんな母の思い出で忘れられない出来事がある。
それは喜八郎が同級生に、足の障害を馬鹿にされ、からかわれたことを知った時のことだった。烈火のごとく怒った母は、息子をからかった相手の家まで怒鳴り込み、喜八郎に両手をついて謝らせた。
「僕は3歳の時に注射が原因で軽い小児麻痺にかかり、左足が少し不自由でした。その足のことをからかわれると、母はいつも血相を変えて飛び出していきましたね」
自分のせいで大事な息子の身体に障害を残してしまった。
そんな自責の念が母・しげにはあったに違いない。
喜八郎少年の与那国島での暮らしも小学6年で終わりを告げる。父・新一の考えで那覇の中学に進学することになったのである。
「与那国島には高校がありません。そのため島の子どもたちは、中学を卒業すると石垣島や沖縄本島に行かざるをえません。中には、子どもを高校・大学に行かせるために家族で引っ越していく者もいます。それが与那国島の過疎化の原因でもあるわけです」
喜八郎は小学校の卒業式が終わった翌日、船速6ノットの貨物船に揺られ48時間かけて沖縄本島に渡った。
アメリカ統治下の沖縄本島は、極東最大の米軍基地と呼ばれ、大規模な施設が次々に建てられ活気にあふれていた。
喜八郎が進学した那覇中学も当時、ひとクラス60名で21組もあるマンモス校だった。
「ベビーブーム世代ということもありますが、街中が好景気に沸いていました。父は理容学校をするかたわら、理髪店や下宿屋を何軒も経営して羽振りがよさそうでしたね」
父・新一の妹が切り盛りする下宿屋に落ち着くと、喜八郎は那覇中学の名門・吹奏楽部に籍を置きトランペットを吹くようになる。
「後に沖縄・西原高校のマーチングバンドを世界一に導いた大城政信先生の指導の下、沖縄交響楽団の指揮者になった糸数武博君や東京キューバンボーイズのメンバーになった国吉君もいて、那覇中の吹奏楽部はとてもレベルが高かった。中学2年の時には朝日新聞主催の西部吹奏楽コンクールに出場するため、鹿児島まで行ったことをよく覚えています」
ところが、ここで喜八郎は事件を起こす。休みの日に訪れた桜島で、柿の木によじ登り柿を取って食べているところを見つかり、「沖縄の子はこんな子か」と叱責(しっせき)を受ける。
たかが柿の実を取ったくらいでと思うかもしれないが、喜八郎の素行はこんなものではなかった。