2年前、戦後の大相撲を振り返る『大相撲「戦後70年史」』(ベースボール・マガジン社)の企画で、白鵬にインタビューをしたことがある。そこで白鵬は、歴代の横綱とのかかわりを熱く語ってくれた。
少年時代、モンゴルで出会った「土俵の鬼」初代若乃花の思い出。大関、横綱へと駆け上がる頃、千代の富士の左前廻しを素早く取る相撲に憧れ、何度も映像を見て自分のものにしようとしたこと。
横綱の重みに苦しんでいたとき、大鵬に教えを乞い、「横綱は強い者がなるのでない。横綱という宿命にある者がその地位につくんだ」との言葉が支えになったことなど。白鵬が横綱の重みを真正面から受け止め、真摯に学んできたことが、ひしひしと伝わってきた。
なかでも印象に残ったのが、双葉山のことだ。双葉山は、多くの人が力士の理想として称賛する大横綱だ。その強さは比類なく、69連勝は、白鵬が今も破れない不滅の大記録として語り継がれている。さらに、強さ以上に評価されているのが、相撲内容や土俵態度だ。
白鵬自身の言葉が、その魅力を雄弁に物語る。「花道から入ってくる姿も、土俵下で控えている姿も、仕切っている姿も、すべて美しい。『勝ちたい』という気持ちがまったく感じられず、ゆったりした姿のまま立ち合い、勝ってしまう。どうすればそんな相撲が取れるのだろうと、繰り返し映像を見ました」。
なかでも白鵬の心をとらえたのが「後の先」と呼ばれる立ち合いだった。「自分から勝ちにいくのではなく、相手の攻めを受け止め、自分の相撲に持ち込む。私も、そんな相撲を理想とし、少しでも近づきたいと思い続けてきました」。実際に、白鵬の相撲からそんな姿勢を感じた時期もあった。相手によって違っていた立ち合いの足の踏み込み方を一つに定めたり、張り手を封印したりもした。
ところが、現在の白鵬の荒々しい相撲は、双葉山からはまったく遠いところに行ってしまったように見える。大鵬が亡くなり、意見をする人がいなくなったからというのも、一つの見解だろう。しかし、これほど真摯に過去の横綱から学び続けてきた白鵬が、それを簡単に捨ててしまうものだろうか。私には別の理由があるように思える。
横綱という地位の「特権」と「残酷さ」
双葉山を目指していた頃の白鵬は、勝ち負けよりも「理想の相撲」を追い求めていた。それに対して現在の白鵬は、「勝つ」ことを何よりも重視し、そのためにあらゆる知恵と技と力を振り絞っているように見える。荒々しさもそこから生まれたものだ。白鵬がそんな道を選んだのは、そうせざるをえない状況にあったからではないだろうか。
横綱は、いくら負けても地位が下がることはない。それは横綱の特権であると同時に、残酷な定めでもある。ケガや病気になったとき、休んでじっくりと回復する時間が与えられる反面、もしも優勝を争う力がなくなったら、たとえ若くても引退を迫られる。それは、白鵬のような大横綱でも同じだ。むしろ大横綱であるからこそ、力が落ちても現役を続けることはなおさら許されない。
そして、白鵬にとって引退とは、相撲協会との縁を切ることを意味する。普通の横綱なら、引退すれば親方として相撲界に残り、指導者となれる。しかし、親方になれるのは日本国籍を持つものだけだ。モンゴル出身の白鵬も、日本に帰化すれば道は開ける。実際に、同じモンゴル出身の旭天鵬や朝赤龍も、帰化して相撲協会に残った。白鵬も帰化すればいいのだが、それは簡単なことではない。