今も残る過酷な強制労働の爪痕

里山辺地下軍事工場跡にある地下壕。風化が進み保存強化の必要性が指摘されている
里山辺地下軍事工場跡にある地下壕。風化が進み保存強化の必要性が指摘されている
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 松本市里山辺(さとやまべ)地区には地下工場跡地がある。JR松本駅から車で約15分、長野自動車道から約20分。松本市内を流れる薄川(すすきがわ)沿いにある。民有地になっていて、一般公開はされていないが、調査活動する『松本強制労働調査団』のガイドで、地下壕に入れる。

 ’44年12月、紀伊半島沖を震源とする最大震度6の東南海地震が起きた。そのとき、名古屋市の三菱名古屋航空機製作所や発動機製作所も被害を受け、松本市へ工場疎開をする。

 松本市が選ばれたのは、名古屋から松代へ行く途中ということや、市内には飛行機関連の工場があったこと、地質が硬いこと、松本歩兵五十連隊や飛行場があったことも理由だ。

 工事が始まったのは’45年4月。里山辺地区(当時、里山辺村)や中山地区(中山村)には、地下工場や半地下工場を作り、ゼロ戦の後継機「烈風」などの部品製作と機体の組み立てをする計画だ。しかし、完成前に終戦となった。ガイドの平川豊志さんは言う。

「当時の村長は“半島人が7000人”と書いています。ただ、寄留簿では数百人とあり、実態はわかっていません」

 一方、地下工場がある山の反対側には中山の半地下工場跡があった。中国人が連行されてきていた。

「中山の場合は中国人が強制労働をさせられていたのですが、外務省が作成した名簿があり、503人がいて、7人が亡くなったことがわかっています」

 ちなみに、中国人の強制連行は、長野県は北海道についで2番目に多い。

 里山辺地下壕跡は40%の完成度。現在、入ることができるのは約1・2キロ。松代とは違って、観光用に整備されていない。足元は悪く、歩きにくい。

 ところどころに、明かりとして使っていたカンテラの煤(すす)で書かれた文字が目に入る。工事を請け負った「熊谷組」や、下請けの「山中」、測点からの距離が書かれている。ズリを運んだトロッコを動かすためのレールが一部残っている。

里山辺地下軍事工場跡にある地下壕で見つけた煤で書かれた文字
里山辺地下軍事工場跡にある地下壕で見つけた煤で書かれた文字

 松本でも後世に語り継ぐことが課題だが、調査団には信州大学の学生が関わる。医学部5年生の春日みわさん(23)は県内出身。「もともと沖縄の基地問題に関心がありました」と話す。しかし、戦争遺跡が県内にあることは最近まで知らなかった。

「その土地なりの戦争があることがわかりました。沖縄から戻って地元のことを知りたくなりました」

 里山辺の地下壕にはまだ入ったことがない。

「意識しないとあっという間に(記憶や証言が)消えてしまいます。意図的に掘り起こさないといけない。これから詳細を知りたいと思います」

 春日さんを調査団に紹介したのは医学部6年生の奥野衆士さん(24)だ。

「僕も1年生のときに先輩に紹介されました。調査団は’90年から活動していて、継続は力なりを体現しています。世代間継承もしていかないといけません」

 奥野さんは地下壕に入ったことがある。

「劣悪な環境で働かされていた人のこともそうですが、企業側の責任が問われたのか気になりました」

 奥野さんは卒業後、出身地の東京に戻るという。

「(里山辺の地下工場を知るまで)社会を知ったつもりでいました。これからは戦争や平和の問題に気がつくきっかけを作りたい」

 文化庁は、幕末から戦争末期までの近代遺跡を文化財として保存することを検討、調査した。しかし、報告書がまだ出ていない。戦争の記憶は今、伝え残そうとしなければ風化し、いつかは消えていく。加害の歴史を含めて、戦争遺跡を残すことが必要だ。

取材・文/渋井哲也

ジャーナリスト。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどについて取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)