この子はたくましい、大丈夫だ

 1971年7月14日午後4時1分。3220gの玉のような女の子が高知市で産声を上げた。

 和泉さんは初孫として可愛がられ、愛くるしい笑顔はみんなに愛された。家族は幸せに満たされていた。そう、歩き始めるまでは──。

 診断を受けた後は、ビタミンDとリンを補充する薬を毎日飲み続け、月に1度は診察、検査を繰り返した。効果があるのかどうかもわからない。和泉さんは成人するまで飲み続けたあの薬の味を今でも覚えている。

「リンは魚の腐ったようなにおいがした。子ども心にしかたがないと飲んでいました」

 和泉さんは幼いころから手がかからず、わがままを言うことも叱ることもほとんどなかった。本業の不動産業に加え、空手道場を経営している一雄さんが厳しく躾(しつ)けたのも、礼儀に関してだけだった。

 このまま、無事に育ってくれるだろう。そんな思いが次第に強くなっていた。

「両親は、障害者だという意識を私に持たせないように育てていたと思います。通常の学校に通い、ハンディキャップを感じることなく過ごしていました。好奇心旺盛でわんぱくでした。花壇に入って立たされたと文集にありましたから(笑)」

小学校高学年のころ。父の一雄さん、弟の光国さんと。3年生のころの手術で脚をまっすぐにしたが、再びひざから下が湾曲。大分の病院に検査に行った帰り、家族で観光地を巡った
小学校高学年のころ。父の一雄さん、弟の光国さんと。3年生のころの手術で脚をまっすぐにしたが、再びひざから下が湾曲。大分の病院に検査に行った帰り、家族で観光地を巡った
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 しかし、骨の形成に必要なビタミンDやリンは薬で補充しても身体にとどまらず流れ出る。骨が弱く、成長すると負荷がかかり、ひざから下が湾曲しO脚に変形していく。

 湾曲が顕著になったため、小学校3年生の1学期、入院して手術とリハビリを行った。初めての全身麻酔。両足の骨を2か所ずつ切断し、まっすぐになるようにつなぎ合わせる手術だ。3年生のクラスの集合写真にその姿はない。

 同じ小中学校で過ごし、仲のよかった澳本みゆきさんは小中学校のころの和泉さんの様子をよく覚えている。

「いず(和泉さん)は学校では笑顔でパワフルでした。体育もできる範囲で一緒にやっていました。ただ、走るのは遅かったから、運動会の徒競走では次の人に抜かれてしまうんです。でもそんなことはおかまいなし。いつも最後まで全力でした。あまり気を遣ったりいたわったりした記憶がなくて。本当に対等な友達で、恋の話もお互いに相談しました。お菓子づくりが上手で教えてもらっていました。勉強もよくできましたよ

 香代さんは母として、自分の身体について理解を深められるよう、医学について学んでほしかった。和泉さんもそれに応えるように勉強した。卒業文集には、将来の夢を「薬剤師」と書いている。

 小学3年生の手術で一時はまっすぐになった脚も、進級とともに再び湾曲してしまった。持ち前の明るさで友達も多かったが、子どもは残酷だ。自転車で迎えに行った母の香代さんは、ある日、こんな姿を目にした。

「裏門で待っていると、こちらに歩いてくる和泉の後ろから、男の子たちが“チビ!”“ガニ股!”と囃(はや)し立てていました。すると、和泉はピタッと立ち止まり、キッと振り返って負けずにこう言い返すのです。“やかましい!”。この子はたくましい。ああ、大丈夫だと思ったものです」