海のそばで子どもたちを育てたい
昭和46年に長男・紺、その翌年、長女・かなが生まれる。
人気絵本作家となった茅子のもとには週に1度のペースで仕事を依頼する電話がかかってきたが、「赤ん坊が2人もいるから、新しい仕事はできません」と言って断った。
「あのとき、依頼の来るままに仕事をしていたら、私はとっくに潰れていたでしょう。ちょうどいいときに生まれてきた子どもたちに感謝しています」
寝る前に、子どもたちに絵本を読むのも、茅子にとってはかけがえのない日課となった。
「2人の好きな本をそれぞれ1冊ずつと私の読みたい本を1冊。毎晩、布団の中で読んであげました」
自分の子どもに読むことで、茅子は絵本の見方も大きく変わったという。
「子どもは字が読めないぶん隅から隅まで絵にじっくり目を通して、描かれているものの奥にある描いた人の心まで読み取ることができるんです。ところが文字が読めるようになると、人はたちまち絵でコミュニケーションする力がなくなってしまいます」
だから講演会などに呼ばれると、子どもに早く文字を教えようとする親たちに、
「まだ文字を知らない幼児のころこそ、心を豊かに育てる大切な時期ですよ」
と話しているという。
長男が5つになったころ、茅子は思い立って神奈川県葉山町に引っ越す決心をする。
「海は、泳ぐのも眺めるのも好きでした。初めて見た海が小学校5年生の夏休みに日曜学校で行った葉山の森戸海岸の海。あのとき見た夕焼けの美しさが忘れられず、海のそばで子どもを育てたいと思ったんです」
夫・良雄と別れた茅子は、2人の子どもを連れてできたばかりの新築マンションに移り住んだ。おはぎという名のオス猫を飼ったのも、このころだった。
「おはぎ、きなこ、そして、むぎ……猫との暮らしは去年まで40年も続きました」
茅子にとって猫との暮らしはなくてはならないもの。大切な絵のモチーフでもあった。
「むぎが亡くなった今も、爪研ぎが捨てられませんね」
葉山に越して地元に暮らす作家や編集者、音楽家との交流も忘れることができない。
「お花見、花火大会、お月見、そして忘年会。何かと理由をつけては集まり、飲んだり食べたり。みなさんのおかげで、葉山での生活を楽しむことができました」
そんな茅子のことを『葉山日記』の著者で、元マガジンハウスで編集の仕事をしてきた吉田仁さんは、
「とにかくいないと寂しい人。酔っ払って陽気になって歌って踊る姿が印象的でした」
海と山に囲まれた葉山での暮らしは楽しい思い出ばかりだったが、長男の紺が中学に上がるころ、ある問題が持ち上がった。
「紺が小学3年、4年生のころから次第に不登校になり、中学に上がってからはほとんど学校に行きませんでした。家にこもって、コンピューターをいじったり本ばかり読んでいました」
しかし、中学を卒業するころから勉強を始め17歳のとき「大学入学資格検定」に合格。テキサスA&M大学の日本校に入学する。
「福島県郡山にある日本校で目覚めたようによく勉強して20歳のときアメリカの本校へ進学しました。ところが2年後にうつ病と診断され、日本に帰されてしまいました」
23歳で帰国した長男の紺は、その後29歳のときに亡くなる。脳を開けてみると、小学校のとき頭を打ち、そのときできた傷がもとで脳に細菌が入り、それが原因で亡くなったことがわかった。
「うつ病なんかじゃなく、頭を打ったことが原因だったと知り愕然としました。帰国して都内でひとり暮らしをするまでに回復していましたから」
愛する息子の突然の死。強い絆で結ばれていた母と子だけに、その悲しみは言葉では言い表せないほどだった。
60年来の友人である桜内邦子さんは、当時の茅子についてこう語る。
「ご主人と別れてカラッとしていた茅ちゃんが、紺君を失ってから、ずいぶんと人間が柔らかくなりました。一緒に朝までお酒を飲んだ日のことが思い出されますね」
そうした苦しみを経験しながらも、茅子は休むことなく絵本を描き続けた。