モヤモヤの正体は「世間が主語」
生き方は人それぞれのはずなのに、「産む・産まない」の話になると、なぜか主語が世間や親、あるいは国家へと飛躍します。
「周りが産んでいるから」
「親に孫の顔を見せてあげたいから」
「少子化を止めるためにも産むべきだ」
と。すごいなぁ。人のために、親のために、お国のために生きているのか……。すみません、そこまで考えられないです、私は。
ひとつ心配なことがあります。自分以外の誰かが主語になってしまうと、必ず「人のせい」にしたり、選択や決断に後悔したりしませんか?
産むも、産まないも、自分が主語であればいいし、自分で決めたことならば突き進むしかないわけです。転職も結婚も離婚も妊娠も出産も、主語が他人に乗っ取られないよう、なりすまされないよう、ということを書いたつもりです。
今回は、「産む・産まない・産めない」「不妊治療」「家族との距離感」「不干渉の母」「別居婚」など、いろいろなキーワードがあります。共感というよりは、「改めて自分と向き合う」効能があるといいなぁと思っています。
というのも、私は「子どもを産まない人生を選んだ人の代弁者」ではありません。あくまで読んでくれた人が主語で、「あ、そうか、私の人生の主語は私だ」ということに気づいてもらえれば本望です。
孫なんかいらない・面倒くさい
いまだにテレビドラマでは「孫の顔を見せてあげたい」というシーンが出てきます。世間の親たちはそんなに孫を欲しがっているものなのか。私の母に、孫が欲しいか、羨ましいと思うことがあるか聞いてみたところ、いい感じで突き抜けた答えが返ってきました。