正統派からバラエティー色の強いものまで、その数、毎週10本以上!「気づけばクイズ番組を見ちゃってるのよね~」って人も多いのでは? ではなぜ再びクイズ番組が脚光を浴び始めたのか。その歴史や背景を紐解くと、時代の移り変わりとともに、ある“ウラ事情”が見えてきたのです!
~1970年代「クイズ番組」の歴史とは?
クイズ番組の歴史は日本でテレビ放送が開始された草創期、1953年に遡る。日本初のクイズ番組の1つがNHK『私の仕事はなんでしょう』。また同年、問題を言葉ではなく身体の動きで表現するNHK『ジェスチャー』が始まると視聴者の人気を集め、15年間続く長寿番組となった。
テレビウォッチャーでコラムニストの木村隆志さんは「当時のクイズは物事やヒントから連想するというような、家庭や学校でもすぐにできるようなシンプルな内容でした」と語る。
’61年にはテレビ普及率が50%を超え、お茶の間にテレビがあることが当たり前になり、視聴者参加型で30分番組が主流に。
値段を当てると豪華な電化製品がもらえる『ズバリ!当てましょう』(’61~ ’72、’75~ ’82年/フジテレビ系)、ハワイ旅行へ行ける『アップダウンクイズ』(’63~’85年/TBS系)などは庶民の憧れの番組だった。
俳優の田宮二郎さんが司会を務めた1分間に12問のクイズが出るスリリングな『クイズタイムショック』(’69~’86、’89~’90年。以後、名称変更してレギュラー放送。現在も不定期放送中/テレビ朝日系)、対戦勝ち抜き早押しクイズの『ベルトクイズQ&Q』(’69~’80年/TBS系)は高額賞金が目玉で人気となった。
芸能人や文化人が男性チームと女性チームに分かれ、キャプテンのヒントをもとに正解を当てる『連想ゲーム』(’69~’91年/NHK)が始まったのもこのころだ。
クイズ作家であり、一般社団法人日本クイズ協会理事の大門弘樹さんは当時の風潮について「賞金や賞品に上限がなく、どんどん高額化していった」と話す。
「’70年放送の『クイズ・キングにまかせろ!』(フジテレビ系)では賞品が世田谷の1000万円のマンションという“マンションクイズ”が人気に。しかし“射幸心を煽る”と国会で問題に。“上限額100万円”という規制ができるきっかけとなりました」(大門さん)
バラエティー・ショー化するクイズ
’70年代に入ると、クイズ番組も百花繚乱の時代へ。
「この時代は司会者のステータスが高く、問題を把握する番組のマスターであり、キャスティング権を持つプロデューサーだったという特徴が。番組の品格を落とさずトークを盛り込み、バラエティー・ショー化していきました」(木村さん)
その特徴的な番組が、『クイズダービー』(’76~’92年/TBS系)だ。篠沢秀夫教授、はらたいらさんといったレギュラー解答者と司会の大橋巨泉さんによる攻防の見どころに加えて、視聴者がクイズの正解者を予想して資金を賭けるという新しいスタイルを生み出した。
ファミリー参加型の『クイズ100人に聞きました』(’79~’92年/TBS系)は、関口宏のフランクな司会が斬新だった。
司会の久米宏や萩本欽一、坂上二郎さんら出演者と軽妙なやりとりで進む『ぴったしカン・カン』(’75~’86年/TBS系)も高視聴率をマーク。最新のコンピューターを使用し難問に挑戦する、土居まさるさん司会の『象印クイズ ヒントでピント』(’79~’94年/テレビ朝日系)も話題に。
ジャンル別パネルから問題を選び答える15分のフジテレビ系『クイズグランプリ』(’70~’80年)や現在も続くテレビ朝日系『パネルクイズ アタック25』(’75年~放送中)は知識を競うクイズを出題するなど時代を追うごとにバラエティーに富んだものとなっていく。
■クイズダービー(’76年~’92年/TBS系)
大橋巨泉、徳光和夫が司会を担当。先日、篠沢秀夫教授が亡くなり番組が話題にも上った
■象印クイズ ヒントでピント(’79年~’94年/テレビ朝日系)
土居まさるが司会の映像当てクイズ番組。東山紀之や木村拓哉らも出演したことが
■クイズ100人に聞きました(’79年~’92年/TBS系)
一般人100人に行ったアンケートの結果を予想。関口宏が出題中にひじをつく姿も名物に
■アメリカ横断ウルトラクイズ(’77年~’98年/日本テレビ系)
“知力・体力・時の運”を合言葉にニューヨークを目指す革新的番組だった
■連想ゲーム(’69年~’91年/NHK総合)
男性が白組、女性が紅組に分かれ、キャプテンから出されるヒントで答えを導き出す
■アップダウンクイズ(’63年~’85年/TBS系)
解答者がゴンドラのような解答席に座り、10問正解でハワイ旅行と賞金がもらえた