第2の人生は故郷のために尽くす
帰国後、筑波大学で17年、東京大学で11年、政治学者として業績をあげ、東京大学教授を務めていた61歳のとき、蒲島は故郷・熊本の県知事選挙に出た。
「このときは驚きました。アメリカに行ったことも、大学教授になったこともびっくりしたけど、今度は知事か、と。それほど親しくなかった同窓生たちは、“あの蒲島君?”って(笑)。私たちの頭の中には、一本松の下で寝転んでいた彼しか記憶がなかったから。でもそれからは誰もが応援しましたよ。いつ会っても彼は変わらなかったからね。ちっとも偉そうなところがなかった。“あのころの蒲島君”のままなんですよ」(前出・芹川さん)
60歳を過ぎて人生の次の選択をしようとしたとき、「故郷のために尽くしたい」という思いが止められなかったようだ。
「娘たちは必死に止めました。私にとっても政治家の世界は遠いし好きでもなかったから、まさに離婚の危機でしたよ(笑)。東京の家のローンも残ってたんです。ただ、本人がその気になったら誰が止めても無理だということは長い結婚生活でわかっていますから、どうせやるなら当選してほしかったですね」(富子さん)
どちらかというと、人前に出るのは好きではない妻の富子さんも、選挙運動で否応なしに引っ張りだされたと苦笑する。
「強敵が4人いたけど、終わってみれば投票数の半分をとって当選しました」(蒲島)
彼は県知事として3つの決意を述べた。第1は熊本の可能性を最大化すること。第2はこれから熊本をよくするために、あらゆる知恵と力を使いながら多くの課題に立ち向かっていくこと。第3は県民の目線で仕事をすること。
そして蒲島は「皿を割ることを恐れるな」というわかりやすいメッセージで職員を鼓舞した。皿をたくさん洗う人は割ることもある。皿を割ることを恐れて洗わないことがいちばんいけない。失敗を恐れずに挑戦しろということだ。「空振りはいいが見逃しはダメ」と野球にたとえることもある。
知事になると同時に、東大時代の教え子だった小野泰輔さん(現・熊本県副知事)を参与として迎えた。
「声をかけていただいたとき、ちょうど勤めていた会社での大きな仕事が一段落したこともあり、先生が望むならとやって来ました。東大時代から今に至るまで知事が怒るのを見たことがありません。知事は怒りの遺伝子が欠如していると私は思っています(笑)。教授時代からずっととにかく人がやる気になるようにバックアップしてくれるんですね。私自身、仕事でちょっと失敗したことがあったんです。“これが大事になるようだったら辞職します”と言ったら、知事はにこにこしながら“そのときになってから考えればいいじゃないか”と。決して人を責めない。何かあっても対応してくれる。常識にとらわれない器の大きさがありますね」
小野さんはそう話す。
「蒲島3原則」は「怒らない、強制しない、言ったことは守る」の3つ。
そして知事になるなり、蒲島は1年間、自分の給料を公約どおり毎月100万円カットした。税金を払うと月に14万円という給料だった。毎月公開している知事交際費は数万円の出費しかない。知事になってから質素な生活をしていると笑う。