ローラースケートとの出会いが転機に
日本三大中華街のひとつ、神奈川県にある横浜中華街。ここが、露木さんが生まれ育った場所だ。両親も祖父母も日本人。なぜ中華街に居を構えたかは不明だが、祖父は洋家具店を営み、その後、郵便局長になったこと、ボランティアで通訳できるほど英語が堪能だったことなど、断片的な出来事だけは知っているという。
「ごく普通の家庭でしたよ」と振り返る露木さんは、1967年、2人姉妹の次女として生まれた。父は祖父の跡を継ぎ、郵便局長として働いていた。一家は、郵便局のあるビルの上階に住んでいた。
「父は、郵便局を閉めてから遅いときは20時ごろまで残業し、そのまま2階に上がって、居間でお酒を1杯飲みながらテレビを見る。行動範囲はあまり広いほうではありませんでした。母はアクティブ。一般企業の経理として働き、家に帰って夕飯を作ってから、今日は絵画、翌日は陶芸、その次の日はコーラスと習い事に出かけていく。多彩な趣味を持ち、溌剌と目いっぱい動き回る感じでした」
母親の行動力は、今の露木さんに通じるものがあるが、小学校、中学校時代の露木さんは、まったく違っていた。人生の中でも“暗黒の時代”を過ごし、人知れず悩んでいたのだ。
「いじめられていたんです。無視されたり、筆箱を隠されたり、バイキン扱いされたり。目立つつもりはないのに“メダトウ星人”って言われたり。すごく孤独で、つまらない毎日でした」
しかし、そんな日々の中で一筋の光が見えた。中学2年生のころ、学校に打ち解けていなかった女の子が、「山下公園のローラースケートチームを見に行かない?」と誘ってくれたのだ。時は1981年。派手な衣装を着て路上で踊る竹の子族が流行っていた時代、横浜ではチームでローラースケートをすることが流行していた。
「行ってみたら『シーガル』というチームがいて、そこにいる子の半分以上が、近所のアメリカンスクールに通う子どもたち。日本人なのに英語を話していたり、外国人の子の中には日本語を話している人も。誰でもおいでよ! そんなオープンな感じが楽しくて、自由な気持ちになれました」
ほんの一歩踏み出せば、まったく違う世界が広がっている。閉塞感のある環境や状況は、ごく一部の狭い世界で起きている出来事なのだ。このことを、身をもって体感したのである。
高校に入ると一転、本人いわく「なぜだかわからないけど」人気者になり、いじめとは無縁になった。ようやく、学生らしい青春時代が始まった。高校2年生のときは、ロサンゼルスへ1年間、留学する機会に恵まれた。ローラースケートに触れたのを機に、英語を話したい、勉強したいという思いは募っていた。
「ロス郊外の家庭でホームステイをしました。どうしても、ローラースケートの中心地だったベニスビーチに行きたくて、週末にバスを乗り継いで片道3時間以上かけて出かけました。小学生に間違えられましたが、得意のスケートを披露すると、小さな身体なのにパワフル、ブラボー! と喝采を浴びて。ストリート文化の本場で褒められたことがうれしかった。印象深い思い出です」