日本を離れ、社会や世間、他人の基準を気にせず、自分が好きなように生きられるパリでは、重い鎧を脱ぎ捨てて素の自分になるような開放感を味わった。
ところが、だ。脱ぎ捨てたはいいが、今度は「素っ裸の自分」になり多様で自由な社会の中に放り出されたことで、「あれ? 自分って、これでいいんだっけ?」と、まったく参考にする基準がないことに戸惑い始めてしまったのである。
30年間生きづらいとは感じていたものの、王道の基準をあてにできるのは楽なことであり、自分が想像していた以上に、しみ付いていたのだ。
バレンタインデーの過ごし方は?
パリジャンたちは、幼いころから個を持つように教育された筋金入りの自分を持った人たちだ。道行く人に声をかけて、恋や愛についてインタビューすることがよくあるのだが、声をかける度、2人として同じ答えがないことに驚かされる。
たとえば、バレンタイン商戦で盛り上がるモールで、バレンタインデーの過ごし方について街頭インタビューしたときのこと。アムールの都だけにさぞかし恋人同士たちは盛り上がるかと思いきや、熱烈にいちゃついていた10代カップルの答えは、「バレンタインなんて商業的なイベントにわざわざ何をする予定もない。僕たちは若者だからおカネもないし」と驚くほどクール。
付き合って数年経った風情の落ち着いた20代のカップルは、「私たちは音楽家で、コンクールで忙しくてそれどころじゃない。落ち着いたら、まあレストランにでも行くかも」と、これまた関心がない様子。
ならばと、年齢を一気に上げて定年退職カップルに話を聞いてみたところ、「バレンタインというより、私の誕生日だから毎年、南仏の海辺の別荘でプチバカンスを過ごしている」ということで、1つの行事でも人によって過ごし方はそれぞれなのだと思った。
多様な社会というのは、このようにいろいろな自分を持った人が生きている社会である。こうした中で生きるには、しっかりと自覚して自分というものを持たなければならない。多様な社会のパリに、素っ裸で放り出された形になった筆者も「自分はどうありたいのか?」を考えるところから始めた。