不良には引き際の美学があった。今を生きることは器用な蝶野だが、未来を描くことは不器用だったのかもしれない。プロサッカーチームが日本にまだなかった当時、卒業後の目標をすっかり見失っていた。両親の言いつけに従い、大学を目指して浪人生活を始めたが、まるで身が入らない。
ある夜、ふとテレビの画面にくぎづけになった。そこには屈強な外国人選手を相手に力いっぱい闘うアントニオ猪木の姿があった。熱狂する会場、繰り出される華麗な技。サッカーにかけていた情熱がよみがえった。
しかし、ウチのまっとうな両親が許してくれるわけがない。そこで蝶野は一策を講じた。「大学でアメフト部に入りたい」と、母にトレーニングの機械をねだり、毎日、スタミナ料理を作ってもらって身体をつくった。春、2通の合格通知が蝶野家に届いた。大学の合格通知とプロレスの入門通知だ。
「親父は“厳しい世界だから、お前はすぐに逃げ出す”とすごい剣幕で怒るし、お袋は“許しません!”と泣き出すし。俺は不良とはケンカをしたが、普段、親や先生に対し反抗的な態度はとらない主義だ。だからこそ、親父の言葉に交渉の余地があると考えたんだ。“その厳しい世界でこそ自分の力を試したい。 1年だけ、半年でもいいから、チャンスをください。レスラーとして芽が出ないなら大学へ行くから”と頭を下げたんだ」
突然やってきたプロレスデビュー
1984年4月、20歳で新日本プロレスの門をくぐる。「いつか正洋ちゃんは大学に」と、入学手続きをして何年も学費を払い続けたけなげな母の願いとは裏腹に、もう後がない蝶野は、背水の陣で練習に励んだ。同日に入門したライバルたちの中には、のちに闘魂三銃士を結成する武藤敬司と橋本真也もいた。
同期の中で、社会人経験のある武藤選手はいちばん大人びていた。サッカーしかやってこなかった蝶野に比べ、柔道の強化選手にまでなった逸材だ。そんなある日、武藤選手のデビューが決まった。
「控室に行ったら、武藤選手の対戦相手の名前が書いてない。試合30分前になって、先輩が“蝶野でいいや。レスリングタイツ持っているか?”と。頭が真っ白だよ! 作戦どころじゃない。タイツが小さくないか、靴の紐、ゆるいんじゃないかって」
自意識過剰な蝶野の焦りとは対照的に、前座中の前座、誰もまともに見ている客はなく、購買にパンを求める人の列がのびていた。
人生初コールしてもらって組み合ったものの、わずか3分で逆エビ固めをくらいギブアップ!
「ところが、レフェリーが、“ん? まだまだ~”と言って、試合を終わらせてくれない。俺も武藤選手も目が点! プロとしてリングに立つ以上、闘志や意気込みを見せるべきだろ! と教えたかったんでしょう」
初めて気がついた自分の無力さ
踏んだり蹴ったりのデビュー戦を経て、アントニオ猪木の付き人をこなしながら多くを学んだ。「親父のような仕事人間にはなりたくない」と思っていたのに、猪木さんがまさかの24時間プロレスラーで、仕事の鬼だった。決して驕らず、少しの隙を見ては、どんなに疲れていてもトレーニングをする。
裸一貫、のし上がっていく人はどこでも同じなのかもしれない。プロとしての矜持を学び、先輩の技を盗み、次第に実力をつけていった蝶野は、新人の大会「ヤングライオン杯」で同期の橋本を破り優勝。「海外で修行してこい」とオーストリアまでの飛行機の片道切符を渡された。サッカーで実現できなかった海外に、ついに挑戦する日が来たのだ。
ところがである。万感の思いで到着してみれば、何もかもお膳立てしてくれる日本とは違って、待っていたのは孤独との闘いだった。言葉もわからず、レストランのメニューも読めない。通訳もいなければ友達もいない。泊まるのは売春宿の上で、薬物中毒の連中がうろつくような治安の悪い場所。次第に食べるのが億劫になる。おまけに海外のプロモーターから渡された小切手が不渡りだったりと、貯金を切り崩す日々。
「まるで刑務所に入れられた気分。各国の選手が集まる控室でコミュニケーションをとるのも面倒で。大将だった俺が海外では何もできないことにショックだった」