クールなヒール“黒のカリスマ”誕生

 あんなにホームシックにかかっていたのが嘘のようだ。海外で自信がつくと、すでに蝶野の心は日本を離れていた。アメリカ以上に文化や言葉がまるで違う日本に、マルティナさんを連れて行くのも心配だった。「1年でアメリカに戻る」という約束でマルティナさんを伴って帰国したのだが、事態は思わぬ方向へ向かっていく。

 帰国した翌年、ヘビー級選手によるシングルリーグ戦「G1クライマックス」で、大穴だった蝶野が優勝候補の武藤選手を決勝で破りまさかの優勝。その翌年のG1も制し、さらにNWA世界ヘビー級王座も獲得。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、蝶野はスーパースターへの道を突き進んでいった。

1991年8月・第1回G1クライマックス決勝戦。対戦相手は武藤選手。蝶野が優勝を決めたあとリング上で闘魂三銃士がそろい踏みをして、新時代到来へ
1991年8月・第1回G1クライマックス決勝戦。対戦相手は武藤選手。蝶野が優勝を決めたあとリング上で闘魂三銃士がそろい踏みをして、新時代到来へ
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 ところが、称賛を浴びれば浴びるほど、蝶野は退屈し始めた。プロレスには正義のベビーフェイスと悪役のヒールがいて、それぞれ役に徹し盛り上げるが、正義側でいることが窮屈で不自由なのだ。200人くらいしか客席が埋まらない海外のプロレス修行時代と比べたら、今の人気や待遇は雲泥の差だ。東京ドーム大会のメインを張れるなら満足だろう。

 しかし、飼いならされていく感覚が、元番長の蝶野には満足できなかった。

「ヒールの側でもっと自由に自分のプロレスをしたい」と、会社に交渉してもOKは出なかった。

 ならば、と虎視眈々とチャンスを狙った。3度目のG1優勝を飾ったとき、「体制に守られたレスラーはレスラーじゃない!」と、武闘派宣言をしてヒールになることを世間にアピール。言ってしまったものはしかたがない。会社もついに観念してGoサインを出してくれた。

 ついに自分の好きなようにやれる! とはいえ、何か具体的なプランがあったわけではない。まず、形から入ろうとコスチュームを変えることにした。各選手、目立とうとリングの上はカラフルだったから、ちょうど黒がいなかった。そこで、金沢の試合で、マルティナが縫ってくれた黒のガウンで入場して会場をアッと言わせたが、試合のプランまでは頭が回っていなかった。

 一方、地元・金沢出身の馳浩は、蝶野を派手に倒そうと張り切っていた。普段、やらないような場外戦を仕掛けられた蝶野は頭にきて、テーブルごと馳を蹴っ飛ばす。

 金沢の人が目にしたのは、馳選手の勝利ではなく、ぱっくり割れた血だらけの馳選手の頭をかきむしる悪魔のような蝶野の姿だった。この間までヒーローだったはずの蝶野の大ヒールぶりをスポーツ紙はおおいに報じた。流血の馳選手は気の毒だが、この一戦で見事、イメージチェンジを図ることができたのだ。

 全盛期の蝶野をよく知る、週刊誌『ゴング』(1984─2007年)の名物編集長であり、現在、プロレスの解説者などを務める金沢克彦さんは語る。

爆発力のある橋本さん、華やかな技で女性にもてる武藤さんに比べて、クラシカルでオーソドックスなプロレスをする蝶野さんは、やや華がなかったんです。けれども、真っ黒で洗練されたコスチュームやサングラス、マイクを使ってのアジテーションといった、ヒールなのにカッコいいというスタイルを打ち出した。それは蝶野さんが初めてではないでしょうか」

黒で統一されたリングコスチュームでイメージを一新。蝶野のスタイルは、プロレスの枠をストリートカルチャーにまで大きな影響を及ぼした。コーナーポストに上って観客の声援に応える
黒で統一されたリングコスチュームでイメージを一新。蝶野のスタイルは、プロレスの枠をストリートカルチャーにまで大きな影響を及ぼした。コーナーポストに上って観客の声援に応える

 反則技を繰り出し、最後はみじめに仲間に肩を抱かれて引き上げる典型的な悪ではない。クールな“黒のカリスマ”の誕生だ。襟の立った黒いガウンは長い学ランをイメージしていた。反体制にいながらも、仲間を思う強い番長。それは蝶野の生きざまそのものだ。

 しかし、自由にやらせてもらうぶん、ひとつ成功したからといって、あぐらをかいている暇はない。常に前進あるべし。ファンが喜ぶような次の仕掛けを蝶野は模索した。