背景にあるのは「親の離婚」「貧困」「暴力」「虐待」等々。これらが複合的、重層的に絡みながら、彼らを追いつめる。
彼らは学校や地域という枠からこぼれている上に、「最後の砦(とりで)」のはずの役所や国に登録さえされていないのである。確かに存在しているにもかかわらず、「いないもの」として扱われ、ほとんど誰にも知られず、閉鎖的な空間の中で育つ子どもたちは、「自分は誰か」という問いに、おそらく誰よりも早く対峙(たいじ)しなければならない。
「巣鴨子ども置き去り事件」から30年が経つ。果たして状況は良くなっているのだろうか。
「成人無戸籍者」たちの憂鬱(ゆううつ)
無戸籍者が「無戸籍であることの不利益」をもっとも強く被るのは、実は学齢期ではない。
成人近くになり、自立をしようと思った時から苦悩が始まる。戸籍がなければ基本的には住民票もないため、給与の振込先の銀行口座を開設することもできず、携帯電話の契約も、マンションやアパートを借りることもできない。
こうして彼らは「誰かに頼む」か「誰かになりすます」しか生きる術がない状況に追い込まれるのだ。
それでも2000年代初期まではまだ良かったと、彼らは口々に言う。ここ数年で職場などで身元の確認や公的証明書の提出が求められるようになり、より「働く場所」に窮するようになってきているのだ。
住民票すらない中では今やマイナンバーも得られず、一般企業で働くことには制限が出る。当然、ブラック企業やアンダーグラウンドの仕事場が彼らを吸収していく。
しかし「非人間的」な扱いを受けても抵抗できない。「登録されない」「無戸籍」とはそういうことなのだ。
「できる」けど「できない」
近年では無戸籍者たちの存在も認識され、法務省においても「無戸籍者ゼロタスクフォース」が立ち上がり、状況の改善が図られている。
戸籍がなくとも一定の条件を満たせば住民登録が可能になったり、就学、医療保険、パスポート、そして婚姻、投票などもできるようになっている。
しかし現実には、制度的に「できる」と実際に「できる」は違う。機会を行使するためには幾重にも条件がつく。ひとつひとつ、一回一回が「交渉」となる。