「目が覚めた気がする」

 小器用には生きられないけど、何度も何度も挫折しながら横綱まで上がった稀勢の里、きっとまたその強さを取り戻し、優勝して涙を流し、その涙に感動する日が来るはず、と信じさせるものを持っているのだ。

 とは言え、ここ最近はさすがにどうなの? という声が高まっていたのも事実。新聞やネットの相撲記事には「調整不足」「何をしていた?」と書かれた。

 怪我から1年。怪我より自信喪失や相撲勘の迷いが大きいのでは? との声もある。「もうみんな見限ったの?」と思っていた矢先の名古屋場所直前、稀勢の里に手を差し伸べたのが先輩横綱の白鵬だった。

 7月2日、九重部屋での出稽古(他の相撲部屋に行って稽古すること)で稀勢の里に会った白鵬は、自ら声を掛け稀勢の里と土俵で実践的な稽古をした。

 稀勢の里は何度も白鵬に土俵に転がされたが、これが大きな刺激となって「目が覚めた気がする」と語った。そして稀勢の里は、翌日には白鵬のいる宮城野部屋へ自ら出向いた。

 これまで出稽古に行くことにも躊躇していた稀勢の里が、連続して出稽古をし、2日続けて会った白鵬は「俺が稀勢の里の彼女みたいだね」などと冗談を飛ばしたが、実は2日目には実践的な稽古の相手はせず、基本型の稽古の相手だけを務めた。

 何故って? 白鵬はこのとき稀勢の里が名古屋場所に出ると信じていたからこそ、自らの手の内を見せる、実践型稽古を再びしないことを選んだ。ただ優しくするだけがチカラビトの信頼関係ではない。

 稀勢の里にはそれが通じていたんだろう。

 身体中に土をつけてる稀勢の里の腕に白鵬が手を掛け、何やら話しかけると稀勢の里は笑って答えた。その表情は、ここしばらくの虚ろで弱気なものとは違って、自分を取り戻した、しっかりした顔になっていた。