こじらせてばかりの20代
まさに順風満帆に見える彼女の人生だが、実はありえないほどの数の職を転々とし、こじらせまくった末にたどり着いた現在だった。
みどりさんは、1982年に福岡県久留米市に生まれた。
祖父は戦後、和菓子屋を創業した商売人。実はブラウンシュガーファーストという名前は、「ナチュラルなもの」という意味で「ブラウン」、そして祖父の名前「佐藤始」がその由来だった。
父は漁業協同組合連合会で働くサラリーマンで、母は専業主婦。姉と弟がいる。
「九州という土地柄、“女は25歳までに結婚して子どもを産むことこそが幸せ”という価値観の世界で育ってきたんです。でも、私はそれに抗(あらが)うような性格。それがこじらせた20代を過ごす原因だったんですね」と彼女は笑う。
子ども時代からファッション雑誌を愛読し、アパレル業界を目指していた彼女は、高校を卒業すると、地元の短大の被服科に進学する。しかし、本音を言えば、地元を離れたい気持ちでいっぱいだった。
「高校を卒業したらアメリカに行きたい、なんて言っても保守的な両親には許してもらえない。それでも、短大の1年のときに、1か月間のニューヨーク短期留学だけは許してもらえたんです」
留学先で出会った日本人の中には、親から「どんどん海外に行きなさい」と言われた子や米国の大学に行くことが決まっている子もいた。
「そこで、私はこのまま短大にいていいのだろうか、と悩むようになりました。短大では当時、2年生になるとウエディングドレスの製作をすることになっていたんです。私はそれに1年間を費やすことに納得できませんでした。まるで“卒業したらこれを着て結婚してハッピーエンド!”というシナリオに思えて心がザワついたんですね。それで、退学を決意しました」
当然、周囲からの反対もあるだろうと短大在学中からバイトをしていたアパレル会社に就職を頼み込んでおいた。
母親の美保子さんは言う。
「驚きましたよ。短大の1年ではものすごく勉強していましたから、正直悲しかった。でも意外だったのは、主人が“よかよか。自分のしたいことをやったらよか”と認めてあげたことですね」
アパレル会社で、彼女は猛烈に働いた。
「すぐにキャリアを積まなきゃと思いました。大好きなファッションだから、あらゆることが勉強になりましたね」
彼女が任されたのは、閉店が予定されていた店舗。
そこで、お客さんのカルテを作ったり、1日に2、3回マネキンの服を着替えさせたりしてリピーターを増やし、売り上げを1年間で18倍にした。
当時をよく知る会社の元先輩、白石愛乃さんが語る。
「彼女は、高校時代からお客さんとして来ていました。靴や洋服の背景に興味があって、“それはどんな物語を持っているのか”を知りたがりましたね。やると決めたらやる子で、普通なら先輩の言うことを聞くところでも、何でもかんでも自分の色にしていく。すごく評価される反面、恐怖に思う同僚もいました。アパレルってポジションの世界ですから。でも、最終的には“みどりちゃんには敵(かな)わないな”となっていきました」
誰もが彼女の努力と成果を認めた。けれども、本人は「このままでいいのだろうか?」と再び悩み始める。
「どれだけ頑張って働いても、10年後に到達できるのはここまでだな、と限界を感じるようになっていました。それで2年目に、会社を辞めて東京に出ることにしたのです」