憑依型の作家ならではのスランプ
2016年。小説家デビュー30周年を目前に、みとは新しい仕事を断り小説『幸福のパズル』の執筆に没頭した。
「みと先生に“100%直球の恋愛小説を書いてもらいたい”とお願いしたのは2014年のこと。半年後に出版する予定が、1年たっても2年たってもできあがらない。こんなことは初めてでした」
と編集を担当した講談社・文庫出版部(当時)の新町真弓さんは言う。
そのころ、みとは小説家になって初めてといってもいいスランプに陥っていた。
「当初は次々に事件が起きるジェットコースタードラマを思い描いていましたが、登場人物が多くディテールや心理描写を丹念に描くうちに、ストーリーは膨らんでいくばかり。気がつけば600ページ近い大作になっていました」
スランプの原因はそれだけではなかった。
「主人公みちるのすぐ悩んでしまう内向的な性格が、思い込んだら即、行動する私とあまりにもかけ離れていて、なんでこんな設定にしたのか、途中書いていて悔やみました」
主人公になりきることで書く憑依(ひょうい)型の作家・折原みとにとって自分のキャラとは正反対の主人公を描くことは修行のようなものだった。
ちなみに、みとにはマンガや小説を書く場合に行う取材のスタイルにもほかの作家とは少し異なる流儀がある。
「テーマが決まったら、まず物語の簡単なプロット(粗筋)と舞台を決めます。そこでいろんな人たちと出会い、雰囲気やキャラを把握してから話を膨らませていく。だから、取材のときはメモも録音もしないのがみと流です」(前出・新町さん)
象使いを目指してタイに留学した青年の愛と死を描いた映画『星になった少年』をコミカライズした折、取材を受けた井上結葉さんは、
「2人で3時間あまり、お酒を飲みながら話をして、その晩は別れたので後日改めて取材があるものかと思っていたら、それでおしまい。でもできあがったマンガを読んだら、主人公と私の生きた証(あかし)がしっかり描かれていました」
以来、親交を深めた2人。そんな井上さんには今も忘れられない思い出がある。
「夫が亡くなりふさぎ込んでいた私を、みとちゃんが八ヶ岳の別荘に連れ出してくれました。紅葉の季節で、葉が黄色くなり、やがて黒くなって落ちるのを見て、私はやっと夫の死を受け入れることができました。何も言わずに寄り添ってくれたみとちゃんには、とても感謝しています」
その井上さんに紹介された人物が、小説『幸福のパズル』で主人公のキューピッド役を演じる風間浩のモデル・佐久間浩さん。物語の行く末に大きな影響を与えた人物だ。
「佐久間さんにお会いしたときはプロットはできあがっていましたが、佐久間さんの海小屋を見た瞬間、みちると優斗のクライマックスシーンがはっきりと浮かびました」
自身も元サーファーでいつもアロハを着ている佐久間さんは、みとについてこう語る。
「キュートで可愛く、気取らない人。『幸福のパズル』には、実在する葉山の人たちがたくさん登場しています。地元に根づいて生活をしていたからこそ書けた作品ではないでしょうか。それにしてもヒロ(浩)さんはカッコよすぎるな」
還暦を過ぎても若々しい佐久間さんは、そう言って照れくさそうに笑った。
みとが葉山の“秘密の社交場”と呼ぶこの小屋には週末になると海の仲間たちが集う。
みとにとって出会いの場は作品の宝庫。すでに次作へのイメージを膨らませている。
「伝説のサーファーだった佐久間さんの亡くなられた長男・洋之助さんも優斗の憧れの先輩として、小説に登場します。いずれは彼を主人公にした物語も書いてみたいですね」
◇ ◇ ◇
みとは逗子の自宅の2階のテラスから見る海が好きだ。
夕暮れとともに江の島、そして対岸の灯りが浮かび上がるころ、夜空に浮かぶ月が夜の静かな海に光の帯を投げ、穏やかな波の音が時を刻む。
─至福のひととき。
今まで描いてきた物語が次から次へと甦る。浮かぶ月に懐かしい人の顔が重なった。
「人との出会いが私のすべて」
こんな夜は、庭で採れたミントで作るよく冷えた自家製のモヒートが、とても似合う。
(取材・文/島右近 撮影/森田晃博)