ヤンキー街道まっしぐら!
絶望の淵(ふち)に立たされた10歳の女の子は、「自分が強くならなくちゃダメだ」と決意。そして行動に出た。しかし五十嵐さんの場合、「気持ちを強く」ではなく「ケンカが強く」だった。以降、長居公園でひたすら蹴りの練習に励んだ。
「いじめは連鎖するので、私がいじめられると妹や弟もいじめられる。“それを防ぐには自分を鍛えればいいんだ”と考えたんです」
中学に入学後、その名前が他校に知れ渡るのに時間はかからなかった。もちろん、ヤンキーとして。
「だけど、ただケンカ好きな女の子とは違いますよ(苦笑)。自分の中に“弱い者をいじめるやつ、シンナー、カツアゲは許さない”というルールがありました。シンナーを吸っている同級生、後輩を見たらボコボコに殴ったし、他校の生徒にカツアゲされた後輩がいたら、すぐその学校に乗り込みました」
3歳違いの妹、高木憲子さんも、そのころの姉の姿をよく覚えている。
「ヤンキーでしたが、人の心の機微には敏感。いつも“こうするとあの人が傷つく”と考えるような人でした」
しかし、破茶滅茶な行動も目立った。髪にメッシュを入れたいが校則で禁止されていたために絵の具で染めたり、身長が低いから長いスカートが作れないときは、見ず知らずの背の高い女の子に声をかけて百貨店へ連れて行き、その子のサイズで制服を作ったりもしていたという。
憲子さんは中学入学早々、「姉のすごさ」を思い知る。
「ものすごく迷惑な話でしたけど(笑)。3年生が“はるみ先輩の妹、どれ?”って教室に来たんです。私は黙っていたんですけど、友人が“あ、この子です”って私を指さして。そうしたら、“何か困ったことがあったら私らに言ってや”って周囲ににらみをきかせながら出て行きました。私にしたら“あなたたちが教室に来た今が、その困ったときですやん”でした(笑)」
ヤンキーとして名を轟(とどろ)かせた中学生活だったが、知人や友人に取材してもこの時期は歌に関するエピソードが聞こえてこなかった。今回の取材で、「小さいころから今まで、歌はずっと好きでした。いつも癒されて、優しい気持ちにさせてくれたのが歌でした」と言ったにもかかわらずだ。
小学4年生のときのいじめが起因しているからだろうか。本人にそう投げかけると、
「トラウマ? それはなかったですね。家では音楽、いつも聴いていたんですよ。ヤンキーになっても歌は好きでした。ヤンキーだから矢沢永吉さんはもちろん聴きました(笑)。でもケンカして帰ってきたときは小学校の合唱団で出会ったカーペンターズや、ユーミンさんの曲。だけどヤンキーがカーペンターズってカッコ悪いじゃないですか。だから言わなかっただけです」
と、笑顔を見せた。