新人でも嫌な仕事は断るプロ根性
レパートリーも100曲ほどに増え、自身でライブハウスに売り込むなどして仕事も少しずつ増えていったが、それでもジャズシンガーの収入は月におよそ5万円。歌で一本立ちするにはほど遠かった。
’93年、歌手仲間から「プロフィールにできる何かを持っていたほうがいい」とインディーズのアルバム制作をすすめられた五十嵐さんはサザンオールスターズの『いとしのエリー』などをビッグバンド風にして収録。自身が作詞、お笑いタレントのグレート義太夫が曲をつけた歌も挿入した。
デモテープを東京のプロダクションに送り、ライブステージの企画を作ることもした。そして大阪日航ホテルのオーディションから2年後、安室奈美恵などが所属する『ライジングプロ』から声がかかる。
「勝負をかけるほどの意気込みはなかったです。“大阪では経験できない音楽が東京にはあるんじゃないか”と思った程度で、半年したら帰るかもしれないと、マンスリーマンションに住みました(笑)」
ライジングプロと仮契約した五十嵐さんは、給料をもらいながら無料でボイスやダンスのトレーニングを受けた。
ライジングプロは1年で辞めることになるが、社長から「せっかく東京に来たんだから、もう少しこっちでやってみたら」と、その後も3か月、給料を支払ってくれたという。やがて、仕事のオファーも順調に入るようになっていった。
「少しずつ活躍し始めた私を知って、大阪の友達は私が想像もつかない努力をしたと思っているようですけど、『努力』とは言いたくないです。ちゃんと音楽を勉強していないからそれなりに大変でしたけど、そのすべてが喜びだと思っています」
弱音を吐かない、見せない五十嵐さんだからこその言葉だが、妹の憲子さんは東京でひとり暮らしをする五十嵐さんのアパートに行って、肌が粟立(あわだ)ったと言う。
五十嵐さんの曲はほとんどが英語で歌われる。発音はネーティブと変わらないほど流暢(りゅうちょう)。本人は「子どものころ両親が外国人と日本人の子どもが触れ合うバザーやキャンプファイヤーなどの集まりに参加させてくれたので、自然と英語を聞く力が養われたんだと思います」と謙遜するが、憲子さんは首を横にふる。
「アパートの玄関、トイレ、キッチンに英語の歌詞がびっしり貼ってあったんです。トイレもキッチンも、家にいればよく使う場所ですよね。いつも目に入るところに貼って覚えていたんですね。“努力してるんやな。やるやん”と思いました」
大雨で客足もまばらな都内の小さなジャズバーで、その歌声を聴き「一発で心を奪われた」と語る石川社長は五十嵐さんのジャズに対する真摯(しんし)な姿勢に感心する。出会った直後の’99年、こんな提案を持ちかけたときもそうだった。
「白いドレスを着て、何年もかけて世界中のジャズクラブを巡り、武者修行をして打ちのめされながらも帰国して日本武道館でボロボロになったドレスでジャズを歌う」というテレビ番組の企画を、五十嵐さんは断ったのだ。
「駆け出しの新人歌手なら普通は飛びつく企画だし、ミュージシャンも五十嵐が断ったことに驚いていました。だけど本人に理由を聞くと“ジャズシンガーは夢を売る仕事です。汗水垂らしてボロボロになった姿を晒して歌いたくはありません”って。これには僕も何も言えませんでした」