沖縄を背負い、安室らと再デビュー
「“売れないから帰りました”なんて恥ずかしくてたまらないと思ったんですが、アクターズの同期たちがまた一緒にやろうと温かく迎えてくれました。ところが父からは“お前は表の才能じゃない、裏だ”と言われ、指導する側に放り込まれたんです」
16歳でインストラクターとしてクラスを持たされ、振り付け指導もするようになる。スターへの未練が残っていたアンナさんにとって、それはあまりにも酷で、家に帰ると涙が込み上げる日々が続いたという。
あるとき父が、小学生だった安室奈美恵をスカウトし、特待生として入校させた。
「父は奈美恵が歩く姿を見ただけでこの子は歌って踊れると感じたと言います。“安室以上の子はもううちには現れないから絶対、失敗できない。心技体を徹底して指導しろ”と言われました」
20歳のとき、安室をはじめ、自分が指導してきた後輩たちとスーパーモンキーズを結成。再デビューをした。
「父にお前はやめろと言われましたが、私は15歳のときに努力しなかった後悔がずっと残っていたので、絶対やらせてくださいと頼みました。父からはスーパーモンキーズが失敗したらアクターズの次はないと言われたので、自分たちが突破口を開かなかったら沖縄の未来はないという心づもりで上京しました」
アンナさんは14、15歳の後輩たちを自分がきちんと育てなければと気負っていた。休日も朝のランニングから始まり、琉球空手の型の練習、歌とダンスのレッスン、勉強と規則正しく過ごさせたという。
元メンバーで、現在アンナさんとAKB48グループの指導も行う、振付師の新垣寿子さん(41)が当時を振り返る。
「沖縄ではやさしかったアンナさんが、東京では鬼教官のようでした。美容院へ行くと言って、友達と遊んで帰ったら、嘘(うそ)がばれてしまい、激怒されたことがあります。みんな沖縄を背負ってやっているんだよと。アンナさんもまだ若かったのに、弱さを見せず完璧でしたね」
公も私も奮戦していたアンナさんであったが、わずか半年後に引退する。それは同じステージに立つ安室の傑出したカリスマ性に、自分はとうてい及ばないと悟ったからという。
「奈美恵は才能があるうえに努力を惜しまない子でした。誰もいないスーパーの営業でも歌って踊れる場所がある!とうれしそうにしていて。過酷な環境も楽しんでやっているのを見たとき、私には勝てっこないと思いました」
やり切った思いがあり、裏方としてやっていく決心がついた。沖縄に戻ると父はこう言ったという。
「表舞台に立つだけがスターじゃない、スターを育てた人という注目のされ方もある、お前はそこを目指せ」