厳しい世界で闘う選手に胸打たれ
’03年1月、そんな彼女に転身のチャンスが巡ってきた。晋さんにJ1『コンサドーレ札幌』の管理部長就任の話が舞い込んだのだ。当初、夫は単身赴任で札幌に向かったが、2か月後、明子さんは思わぬ言葉をかけられる。
「こっちに来て、選手に料理を作ってくれないか?」
クラブからは「2日で返事がほしい」と半ば強引に決められ、明子さんは熟慮する間もなく了承。突如、幼い2人の子どもとともに慌ただしく移り住むことになった。
晋さんは、妻に寮母を頼んだ背景をこう振り返る。
「管理部長の仕事はトップチームの編成から選手補強、彼らの環境作りまでを一手に手がける幅広いものでした。そこで選手に食事のことを聞いてみると、午前練習の後はコンビニ弁当ですませたり、夜は居酒屋で飲んだりしていた。食生活が乱れると、パフォーマンスも低下する。危機感を抱いた私は、彼らにきちんと食事をとらせるために、チームに一軒家を借りてもらい、妻の作った料理を提供することにしたんです」
選手たちはそれぞれ借り上げマンションで生活していたため、車で10分くらいの場所に一軒家があれば、行き来もしやすい。そう考えての決断だった。
結婚前は料理経験が皆無に等しかった明子さんもこの時点で主婦歴8年。ひととおりのメニューは作れるようになっていた。学生時代に割烹(かっぽう)居酒屋で働いていた晋さんもかなりの料理エキスパートだが、その夫が「ウチの奥さんはまずいものを出したことがない」と称賛する腕前だ。
それでも、プロのアスリートに食事を出すというのは、当時の彼女にとって高いハードルだった。しかし、選手の食事管理は急務の課題。思い切って飛び込むしかなかった。
明子さんはスポーツ選手の栄養学に関する専門書を何冊も貪(むさぼ)り読み、基礎的なことを学んだ。そして勉強を重ねるうち、工夫次第では家庭料理でもアスリートの身体を作る料理はできると感じるようになる。
「でも、大皿で肉料理やサラダ、煮物を出すと、彼らは肉ばかり食べるんで、野菜や副菜が残ってしまう。せっかく色とりどりのメニューにして、バランスよく食べてもらおうと思っても、なかなかうまくいかない。本当に悩みましたね」
最初の一歩は順風満帆ではなかった。一軒家だったため、設備の問題にも悩まされたという。
「家庭用コンロが3つしかなく、冷蔵庫も小さいので買い置きができません。毎日買い出しに行かないといけないし、作れる料理もまちまちになる。温かい料理を出したくても、時間差で作らなければ、冷めてしまうこともある。大変でしたね……」
寮母になりたての当初、もうひとつ悩ましかったことがある。それは選手との関係づくりだ。20歳前後の選手から見ると、30代半ばの彼女は年の離れた遠い存在。もともと控えめな性格の明子さんは、彼らとどう接していいかわからず、コミュニケーションがとれなかった。選手たちの考えや食事のニーズをダイレクトに聞くことができず、焦燥感ばかりが募る日々を送った。
「最初の1年はただモヤモヤしたまま時間が過ぎました。そんな煮え切らない自分を変えてくれたのは、戦力外通告を受けた選手でした。高校を出てプロになったばかりの若い子が契約満了となり、クラブを出ていく……。個別に挨拶に来てくれるのですが、つらさを押し殺して申し訳なさそうにする姿に無力感を覚え“もっと選手たちと深く付き合わないとダメだ”と強く感じたんです」
「変わらなきゃ」という思いが明子さんを突き動かした。
「何か困ったことがあったら言ってね」
意図してそう声をかけるようになったのだ。すると一軒家の雰囲気はガラリと一変。選手たちが気さくに接し始めた。その変化に誰より驚いたのは彼女自身だった。
会話を重ねていくうちに信頼関係も生まれ、徐々に打ち解けていったという。