それは水泳のレースというより、ドラマのようなシーンだった。
今年10月8日、愛媛県マスターズ水泳短水路大会が松山中央公園プールで開かれた。この大会に、104歳の長岡三重子さんが出場することになっていた。マスターズ水泳とは、例えば70~74歳、75~79歳まで……のように5歳きざみで年齢のグループをつくり、各グループの中でレースを行う世界的な競技だ。
三重子さんは100~104歳の区分に属し得意の背泳ぎでさまざまな距離に挑戦。現在18個の世界記録を持っている。この4年間、どの記録も破られていない。まぎれもなくマスターズ水泳のトップスイマーのひとりなのである。
午後1時過ぎ、三重子さんがプールサイドに登場した。女子100メートル背泳ぎに出場するためだ。身長150センチ弱、最近は食欲が落ち、やせている。澤田真太郎コーチに手を引かれてプールサイドをゆっくり歩き、第1レーンのベンチに座った。
3年前、1500メートルを1時間15分54秒39で完泳したのもこのプールだった。100歳超の女性スイマーが世界で初めて達成した前人未到の記録は、「世界初記録」として歴史に刻まれた。
三重子さんにはファンが多く、その日も彼女の泳ぎをひと目見ようとプールサイドで身を乗り出す女性が何人もいた。愛媛県マスターズ水泳協会広報の白石望さんによれば後輩スイマーたちは、
「長岡さんを見習って生涯現役スイマーでいたい」
と尊敬しているという。なかには郷土料理のタコ飯のおにぎりをいつも差し入れる大会スタッフもいるそうだ。
1時27分、スタートの音が鳴った。三重子さんはゆっくり腕を後ろに回しながら進む。緊張のためか水の浅いところを掻(か)いているので、速度はそれほど上がらない。競技中に体調を崩したときのために、救助員が2人と、通常は控室で待機する医師も三重子さんが泳ぐときだけプールサイドで見守っていた。進行方向にまっすぐ進まず、やや身体が斜めになりながらゆっくりと前進する。右腕の筋力が左腕より強いからだという。去年も三重子さんの泳ぎを見た女性選手がつぶやいた。
「去年はもっと斜めになっていたけど、今年はだいぶ修正したんやね。すごいわ」
最後のターンを終え、残り25メートルになった。一緒にスタートした若いグループの選手はとっくにゴールし、三重子さんだけが泳いでいる。ゴールに近づくと会場から拍手が起きる。祈るように胸の前で手を組みながら見ている女性スイマーもいた。
手が先か頭が先か、ゴール板にタッチした。10分20秒79。瞬間、会場全体がどよめき拍手に包まれた。見ると審判員もみな拍手をしている。
「尊敬」「尊厳」─そんな空気が満ちあふれていた。
「よーやった!」
息子の宏行さん(78)が控室で母親をねぎらっている。
かたわらで澤田コーチがこんな話をしてくれた。
「若いころから泳いでいる人は、年とともにタイムが落ちて、うちひしがれてやめていくケースがあります。でも長岡さんは逆なんです。91歳で本格的に水泳を始め、どんどんタイムを伸ばしていって、世界記録も金メダルもたくさん手にした。面白かったと思いますよ」
“遅咲き”という言葉さえあてはまらないぐらいだが、見方によっては、人間が秘めた才能は、何歳でも花開く可能性があることを示しているようにも見えてくる。
なぜ、こんな奇跡のようなことが起きたのだろう。