50代で専業主婦から大黒柱に
三重子さんは1914(大正3)年7月31日、山口県徳山市(現・周南市)の商家に生まれた。7人きょうだいの次女。教育熱心な家庭で、徳山高等女学校に進学した。
「走り高跳びで県大会に出たことがあります」
そう話す活発な三重子さんは、母親からよく聞かされた言葉がある。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
江戸時代の名君、上杉鷹山の言葉だ。“とことん努力すれば必ずできる”という信念はこのとき魂に入ったのだ。
結婚したのは23歳。山口県東部の田布施町の商家に嫁いだ。家には「長岡本店」の看板がかかり、縄やむしろなど、藁(わら)を原料とする商品の卸問屋を営んでいた。そんな伝統的な商品とは対照的に、三重子さんの作る料理はハイカラだったと宏行さんは言う。
「ステーキとかハンバーグといった西洋料理を作ってくれました。朝は珈琲(コーヒー)とパン。友達でもそんなもの食べているのはいなかったですよ」
三重子さんの夫の伯母が米・サンフランシスコから帰国し、田布施町に住んでいたため料理を教わったのだ。
宏行さんによると、兄弟は2人とも、母親から勉強をしろと言われたことはなかったという。教えられたのはひとつ、「とことんやれ」だった。
「小学生の理科の課題で、日の出と日の入りの時間と場所を毎日記録したんです。面白くてずっとそれを続けていたら、教科書の間違いを見つけた。おふくろが山口県庁に、教科書の記述を直すよう言いに行ったんです。山口大学の教授に聞いても、それは君の言うのがおうとると。結局、教科書は訂正されました」
宏行さんは勉強もよくできて、柳井高校から東京大学に合格。立派に子どもを育てあげ幸せな日々だったが、1968年、夫に先立たれる。結核で長患いしていたが、一時は仕事に戻れるほど回復していた。しかし風邪をこじらせあっけなく逝った。享年56歳。
そのとき三重子さん53歳。専業主婦が、いきなり「長岡本店」の暖簾(のれん)を託された。しかも当時は、縄やむしろはビニールなど化学製品に取ってかわられ、斜陽になりつつあった。そんななか鉄鋼会社からひとつの朗報が舞い込む。
「鉄をつくる溶鉱炉に使う籾殻を探しているが、それを手配してくれませんか」
聞けば、溶鉱炉で作られる鉄は急に冷やすと品質が悪くなる。それを保温する必要があるのだが、その保温剤として籾殻が抜群にいいのだという。焼きいもの保温に籾殻を使うのとよく似ている。ただ、トン単位の籾殻が必要なので、藁工品の卸問屋を長く営み、全国の農家にネットワークがある長岡本店ならば、集められると踏んだのだ。
「おふくろは頭がよかったんだね。年に1度しか出ない籾殻を年中手配できるように、ときに北から南まで地方に出張して、頭を下げ、仲買さんをうまくまとめあげて、システムをつくったんだから」
結果、鉄鋼会社から信頼を得られ、事業は右肩上がり。年商は1億円にものぼった。損益計算書、貸借対照表など経理も独学で勉強した。