能楽弟子入りで見せた本気の特訓 

昭和57年5月、宇部文化会館にて67歳で「吉野天人」を舞う
昭和57年5月、宇部文化会館にて67歳で「吉野天人」を舞う
【写真】長岡三重子さんの女学校時代、颯爽と泳ぐ様子など

 地元の呉服店に、「能楽を始めてはどうですか?」とすすめられたのは、商売を引き継いで2年目のこと。商売が軌道に乗り始めたときだ。能楽の稽古には着物が必要だ。もっと着物を買ってくれるだろうという呉服店の企みではないかと、宏行さんは言うが、好奇心の強い三重子さんはそんなことはおかまいなく、通ってみることにした。

 弟子入りしたのは、観世流の下川正謡会。重要無形文化財保持者で能楽師の下川宜長(よしなが)さんが月2日、兵庫県神戸市から山口県の柳井市に教えに来ていた。

 下川さんは、基本のすり足を大切にした。稽古はいつも15分のすり足から始まった。下川さんの妻・静子さんは山口県出身で、稽古に同行しており、三重子さんが独自にあみだした“特訓”について話していたのを覚えている。

「長い廊下をふき掃除するとき、両足のスリッパで雑巾を踏んで、すり足をしながら廊下をふいていたそうです。“すり足の練習にもなるし掃除もできて、一石二鳥です(笑)”なんておっしゃっていましたね」

 能楽の稽古は、いきなりお面をかけて舞うわけではない。能の台本「謡本(うたいぼん)」に節をつけて謡う稽古や、基本所作を「仕舞(しまい)」で身につける。

 稽古は、一対一で朝から晩までぶっ通しで行われた。当時、柳井には30人近い弟子がいたが、三重子さんの熱心さは指折りだったという。

「大きな撮影機材をご自身で購入され、お稽古風景をずっと撮っておられました。それを見ておうちで復習なさるのだと」

 ちなみに、この録画機、当時で50万円もした。

 下川さんは熱血指導が有名で、扇子が飛んでくるぐらいの迫力だった。東京に住む宏行さんに、悔しそうな声で電話がかかってきたという。

「もうやれん!」

 稽古の厳しさに怒っているのではない。師匠に言われたことができない自分に腹を立てていたのである。

「長岡さんはプロではなく、お素人さんですから、それでいいとは申し上げますが、主人も満点とは言いませんから、長岡さんは、“もっともっと”というお気持ちを抱いておられたと思います」

 三重子さんに何が能楽の魅力かを聞くと、こう答えた。

「難しいことができたときのうれしさと幸福感」

 下川宜長さんは、能楽に必要なものが彼女には備わっていると話していたという。

「それは品位です。品位というものはすぐに身につくものではなく、もともと長岡さんが持っておられたのだと思います。その品位が伝統芸能と出会うことで生きてきたと思います」(下川静子さん)

 能舞台での発表会では、3年目で謡、7年目で仕舞、9年目で能を略式で演じる舞囃子(まいばやし)、そして12年目で初めて能面をかけて「羽衣」を舞った。