「2番目のもんは誰も知らん」
その後も主に舞囃子の稽古を続けていたが、80歳のときひざを痛めて稽古ができなくなる。東京に住む宏行さんに相談すると、水中ウォーキングをすすめられた。宏行さんは当時からマスターズ水泳の選手だったからだろう。そうして隣町にある柳井スイミングスクールにひとりで通うことになった。三重子さんが言う。
「ただ、歩いておってもつまらん。せっかくだから泳いでみようか。そう思って泳ごうとしたけど、二間(3.6メートル)しか泳げなかった」
信じがたい話だが、そんな三重子さんが、プールで出会った友達に教えてもらいながら、25メートルを泳げるようになったのは1年たったころである。最初にマスターしたのは背泳ぎ。息継ぎをしなくてもよかったからだという。三重子さんの泳ぎはみるみる上達していく。85歳のときに出場した2度目のマスターズ水泳大会で、5本の日本新記録(85~89歳区分)を打ち立てる。だが、やがて能楽と水泳のバランスが微妙になってくる。
ひざはすっかりよくなったのだが、今度は耳が不調になる。舞囃子全国大会出場のため、「鷺」の稽古をするが「笛の音が聞こえにくい」と訴える。当時、三重子さんを教えていた大江観正社の七代目大江又三郎さん(重要無形文化財保持者)はこう助言した。
「水泳で耳を傷めたかもしれません。水泳をやめないと笛が聞こえなくなりますよ」
しかし、三重子さんは、
「先生、水泳は絶対にやめません。水泳をやめるんだったら舞囃子をやめます」
大江さんは、芯の強い人だなと思った。能楽への気持ちは残しつつも、水泳への思いが強くなっていたのだ。
’01年、「鷺」を最後に能楽をやめた三重子さんは一層、水泳にのめり込んでいく。
翌’02年、88歳のとき、初めて海外遠征に行く。ニュージーランドでの世界マスターズ水泳選手権大会(以下、世界マスターズ)に出場、銅メダルを1つ獲得した。2年後、イタリアで開催された世界マスターズでは3つの銀メダルに輝く。そのころである、三重子さんの言動が変わったのは。それまでは観光がてら大会に出るという姿勢だったが、こんなことを言うようになる。
「銀メダルじゃつまらん。同じやるなら金メダルをとらにゃ。なんでも1番が有名じゃ。エベレストでも富士山でも、北島康介でも。1番のものはみんな知っているけれども2番目のものは誰も知らん。やっぱり1番になって金メダルをとらにゃ」