アメリカンカルチャーに憧れて

 子どものころ、大島では父が建設に関わったコーストガードの基地に自由に出入りすることができた。そこは宮川さんにとって最高の遊び場。毎日のように高台の芝生で野球をして、海に沈む夕日を眺めた。

「基地の中は、まさしく大島にあるアメリカだった。ハンバーガー、コカ・コーラ、ボウリング、すべてが輝いていた。プレスリーの映画もそこで見たんだ」

 高校時代は寮生活。たびたび抜け出しては、映画『イージー・ライダー』を見てバイクに乗り、ジュークボックスのあるカフェでバイトをした。貯めたバイト代で東京へ行って水玉模様の上質なシャツを仕立て、バンドを組んで熱海のホテルに小遣い稼ぎにも出かけた。ファッションも、思想も、大島の同年代からは明らかに浮いていて、話が合うのは、都会の最先端の大人たちだった。

 高校卒業後、「最新の流行やアートを知りたい」と東京に出て、目黒の『鷹美術研究所』に通い始める。

「目指したのはヒッピー。ラブ&ピース。そんな時代だった。アクセサリーや詩集を作って路上で売りロックコンサートの手伝いをした。でもしっくりこない。世の中は物質的な価値を求めていた。ラブ&ピースを歌ってた先輩たちは長い髪を切り就職し始めた。それからようやく、俺は小笠原に目が向いたんだよね」

 先に家族が移住した父島に、初めて渡ったときのことを鮮明に覚えていた。

「16歳の夏休み。父島にはアメリカに統治されていたころの空気が残っていた。パームツリー並木の横にアメリカンハウスが建っていて、ハイビスカスが咲き、魚はカラフルだった。大島とも 東京とも何もかも違う。親父は扇浦(おうぎうら)という浜の近くの土地を開拓して住んでいた。100人の仕事師を抱え、土木に従事していたんだ」

 東京ではつかめなかったものが父島で見つかるかもしれない。見つけたい。家族が移住した4年後、ようやく宮川さんも19歳で父島に渡り住む決意をした。