厳しく育てた母の本音
昌美さんは、松田家の次女として静岡県伊東市で生まれる。1300グラムの早産で、「未熟児網膜症」と診断された。そして保育器に入ったまま、より専門性の高い千葉の病院へ転院する。
当時はネットなどで簡単に情報が手に入る時代ではない。母の二三子さん(60)は、病名を告げられても、わからないことだらけだったと話す。
「育児雑誌の企画で、小児科の医師に先着で質問ができる企画がありました。診断されてすぐ、そこに毎日、電話をかけ続けたんです。1か月半ほどでようやくつながりました。そうしたら“その病院なら名医がいるじゃない”って転院先の先生の名前を言われたんです。それを聞いたら、なんだか泣けてきちゃって……」
二三子さんが、プレッシャーから解放された瞬間だった。
娘の目にどうものが見えているのかわからない。ご飯粒を拾って食べたりしているので、見えていることはわかる。でも色はわかっているのか。「そこにあるおもちゃ、なんで拾わないの?」などと試しながら、娘の状況を知ろうと必死に向き合った。
昌美さんは、目の治療に加え、足のリハビリも必要だった。月に数回、静岡の自宅から電車で2時間ほどかかる千葉県浦安市まで母娘2人で通ったという。
幼稚園に上がるころ、昌美さんは子ども心に「通院はお母さんに負担をかけている」と感じるようになる。
「病院に行った翌日、急に右目が見えなくなっていたんです。でも母に悪いと思ってすぐには言い出せなかった。子どもなりの気遣いだったんですよね。ことの重大さもよくわかっていませんでした。寝て起きたら見えるようになると思っていて……でも、私の目が白濁しているのに母が気づいて、見えていないことがばれちゃったんです」
その後、視力が戻ることはなく、昌美さんの右目は失明してしまう。障害のある子どもが生まれると、その責任を感じてか、子どもを自分の庇護下に抱え込んでしまう母親は多い。
昌美さんの場合、出産時のミスにより足も少し不自由だ。
しかし二三子さんは、そんな娘を甘やかさなかった。
「障害者だって思って育てたわけじゃないんです。目も足も悪くてかわいそうと思ったら、前に進めなくなってしまう。子どもには厳しかったかもしれませんね。でも、親はいつまでも生きているわけじゃないから。残された子どもが、ひとりで何もできなかったら、その子がいちばんかわいそう」
足の状態が多少悪くても、手をつなぎ引きずるように歩かせた。道で転んで泣き叫んでも助けることも振り向くこともなかった。周囲から批判の目を向けられようと、かまわずその姿勢を貫いたという。
それは当時の昌美さんが「自分の母親じゃない」と本気で考えてしまうほどの迫力だった。
「母はライオンのように、あえて厳しいほうを選ぶ人でした。でも、そのおかげでガッツで物事を乗り越えられる根性がついたかな(笑)」