双子の娘を残して上京
1浪の末に1968年、九州大学農学部に入学したその日から鮎川は、博多のプロのバンドとダンスホールのステージに立ち腕を磨いた。しかし鮎川の中では、不満がマグマのように渦巻いていた。
「ビートルズもストーンズもブルースからインスパイアされている。ブルースをやりたいという思いが日を追うごとに強くなり、1970年『サンハウス』を結成しました」
『サンハウス』は“日本のリバプール”と呼ばれた博多に誕生した本格的なロックバンド。のちに「めんたいロック」と呼ばれるムーブメントのさきがけとなる。
「マコちゃんの出現は衝撃でした。それまでのバンドは洋楽ナンバーをコピーするのが精いっぱい。ところがアドリブはもちろん、自在に名曲を操る。いってみれば、高校野球レベルだった博多にメジャーリーガーが現れたようなもの。『サンハウス』のライブに来た観客は食い入るようにマコちゃんのプレーを見つめていました」(前出・松本さん)
その噂はたちまち広まり、『サンハウス』は1975年にファーストアルバム『有頂天』を出しプロデビューを果たす。
ところが博多出身のバンドが次々と東京に行って成功を収める中、『サンハウス』は「自分の故郷を捨ててまで、上京するのはカッコ悪い」という理由で頑なに上京を拒んでいた。
しかし、鮎川にはその気持ちとともに「母ひとり置いて東京には行けない」という切実な思いもあった。
『サンハウス』がデビューした翌年、鮎川の身に思いがけないことが起きる。
「悦子のお腹に赤ちゃんが宿っとるのがわかって、両家が集まり“こら結婚させないかんばい”となった。この2年後、母はがんに侵され59歳の若さで亡くなってしまったけど、結婚したこと、子どもが生まれたことをすごく喜んでくれて、ボクの生涯で1度だけの親孝行やった」
双子の赤ちゃんが生まれると2人は北九州市若松の悦子の実家で暮らし始める。
悦子の実家は洋装店を営んでいたが、祖父母の代から芸事・芸能の大好きな一家。
悦子の父・敏雄は米軍基地のハウスボーイをしていたモダンボーイ。
そんな敏雄に、今でも感謝していることがある。それは『サンハウス』を解散して双子の娘を抱え悩んでいたときのことだった。
「福岡におっちゃダメばい。やっぱ東京でね、勝負かけんとね。そしたら全部ハッキリする」
それでダメだったらあきらめもつく、と敏雄は言うのである。
「耳が痛かった。未練タラタラがいちばんカッコ悪い。お父さんの叱咤激励があって東京で勝負する決心がついた」
と言って鮎川はタバコに火をつけ、サングラスの奥の目を潤ませた。子どもたちを両親が見てくれるなら、今しかない。その思いは夢を信じる悦子も同じだった。