がん闘病中もライブに立った妻
去年、NHK朝の連続テレビ小説『半分、青い。』で劇中歌に選ばれ話題となったシーナ&ロケッツの大ヒット曲『ユー・メイ・ドリーム』。この曲は1980年、日本航空CMソングにも採用され、ヒットチャートを駆けのぼりテレビ出演も増えていった。
「ロックバンドはテレビに出ない時代。でもボクら30歳になって組んだバンド。自分たちのスタイルで演奏できるなら、テレビでもなんでも出る。若松の両親、子どもたちの通っている幼稚園でも応援してくれる。批判の声は耳に入らんかったね」
と話す鮎川。双子の陽子と純子が小学校に上がるころ、ふたりを呼び寄せ東京・下北沢で生活をともにした。やがて三女・知慧子も生まれる。
その知慧子さんは自慢の両親について、こう話す。
「小学校のころ、普通の家とは違うなと気がつきました。運動会や授業参観も両親はライブのときと同じ格好。母はボディコンを着て緑のおばさんをやっていましたから(笑)。その反面、どんなに疲れていても家事など手を抜かない。古風な頑張り屋でもありました。
父はとても博識で、好奇心旺盛。何を聞いても答えてくれる身近な先生みたいな人。ライブ以外は父と母はずっと一緒に家にいる。ラブラブでしたね」
ライブは家族にとってみんなで出かける大切な恒例行事。三姉妹そろって、踊りまくっていたという。
シーナ&ロケッツがデビュー35周年を迎え、2014年7月、ニューアルバム『RO
KKET RIDE』をリリースした直後、悦子が病に侵されていることがわかった。
ある日、血圧を測ると上の数値が200近くあり、大学病院で見てもらうと子宮頸がんだと診断された。しかし2人は抗がん剤治療や放射線治療を受けない道を選ぶ。
「悦子はハッキリがんと共存して、自分の音楽を続けますと先生に言いよりました。ボクも子どもたちもそげん言うた悦子を誰も止めんやった」
それには、わけがあった。
「悦子の父は入院する前日まで、祭りの太鼓を叩いていました。そんな父が入院して間もなく身辺整理をする時間もなくあっけなく亡くなった。それなら家で好きな酒を飲んでいたほうがよかったのではないか、という思いがありました」
ラジオ出演やライブはほかのメンバーだけで行い、悦子はひたすら静養に努めた。
そのかいあって、8月には一時的に体調を持ち直す。9月13日に行われた結成35周年の日比谷野音のワンマンライブでは、痛みをまったく感じさせない完璧なパフォーマンスを披露。さらに故郷・福岡でのライブを精力的にこなし、10月の北海道ツアーでも釧路、根室、中標津のステージに立ち続けた。
しかし11月21日に行われた『ヒステリックグラマー30周年記念イベント』が、悦子のラストステージになる。
「立つことができなくなった悦子は、蓮の花のようなソファに座ったままカッコよく10曲歌い切りました。
ライブでハイヒールをはいてステージを走り回る悦子は、これまで何度も奇跡を起こしてきました。だから天国に行くとは、亡くなる寸前まで思わんやった。メンバーにも言わんかったし、本人も“マコちゃん、待っときね。また歌うけんね”言うとったし、一発大逆転する、そういうすごい人ち、いつも思うとった」
翌年1月には、もう1度ステージに立つために、懸命にリハビリにも取り組んだ。
しかしそうした願いも虚しく、2015年2月14日、午前4時47分。悦子は静かに息を引き取った。
くしくも時計の針が差した時間は、「47分(シーナ)」。病室では、『ユー・メイ・ドリーム』、そして、ラストアルバムに収められた『ROKKET RIDE』が、静かに流れていた。