気っ風のいい語り口に、こまやかな気遣いをあわせ持ち、どんな人にも同じ心で話す人、吉永さんをつくり上げてきたものをたどる。
昭和25(1950)年3月12日、埼玉県で生まれる。出生時に父はすでに60歳と高齢で、母も40歳であった。
「父は結核で家の中で隔離されていて、会ってはダメだと言われていました。母はいつも不機嫌にしていて会話はほとんどなかったですね」
幼いながら家族とはそんなものかと思っていた。ところが小学生になり、遊びに行った友人宅で家族の団欒を目にする。
「夕方になるとお父さんが帰ってきて、ちゃぶ台を出して“みっちゃんもご飯食べていったら?”なんて誘われるんだけど、電話もないし、怒られるから帰るって言いながらグズグズしていると、みんながしゃべりながら食べ始めるんですよ。それが楽しそうで」
人生を変えた競馬との出会い
9歳のときに亡くなった父からは、生前「お母さんのことを頼む」と繰り返し言われていた。吉永さんは幼いながら父に代わる存在にならなければと自覚したという。
父亡き後、母娘は下宿屋の営みで暮らし、吉永さんも中学生からアルバイトをして家計を助けた。母子家庭を見下されないようにと、母からはトップの成績を取るように命じられていた。通訳をして生きていこうと、'72年、東京外語大学インドネシア語学科に進む。
ところが当時は学園紛争真っ盛りの時代。吉永さんも学生運動に関わってみたものの熱くなれない。それどころか闘争やストライキで授業が受けられず、3年になっても語学が何も身についていないことに絶望した。
「見事に挫折です。外語大に入った意味もなくなってしまい、この先どうしようかと落ち込みました」
そんなとき同級生について行った中山競馬場で、その後の人生を変える競馬と出会う。
「競馬場はレースの数だけファンファーレが鳴ります。馬券をはずしてガッカリしているオジさんたちも、次のファンファーレが鳴ると一瞬、元気になるのね(笑)。“人生、1レースじゃない!”と思えて気持ちが楽になりました」
翌日も競馬場へ行き、今度はじっくりパドックを眺めるなどした。馬への関心はどんどん高まり、大学の後半は競馬漬けの日々を送るほどハマっていった。
卒業後、馬のそばで仕事がしたいと必死にツテを探し出し、競馬新聞『勝馬』の記者となる。今でこそ競馬場は競馬を楽しむ馬女が闊歩するようになったが、当時はまだ男社会の権化のような場所だった。
「特別レースの有力馬を3頭ずつ取材してこいと言われて行くんですが、取材した馬が負けると、女に来られたから負けたとか、縁起が悪いとか言われちゃう。
そう言われてケンカしてもしかたないから、大変だけど全部の出走馬に会いに行くことにしました。そうすれば必ず私が行った先から勝つ馬が生まれるからね」