別所さんが生まれたのは戦後間もない1947年12月。広島県と島根県の県境に近い安芸太田町という人口6000人足らずの小さな町で8人きょうだいの末っ子として可愛がられた。
墓石の手彫り職人だった父・麻人さんを、母・末子さんは農作業をしながら支えた。気丈な母は畑に出るときもネッカチーフで髪の毛を包み、きれいに化粧をすることを忘れなかった。その影響を受けた別所さんは幼いころからおしゃれが大好きで、1日に3度も洋服を着替えたり、七輪で髪の毛を焼いてパーマもどきの髪型にしたり、赤い紙を水で湿らせてできた紅色を唇に塗る大人びた女の子だった。
20歳で結婚、40歳で死別
汽車が2時間に1本しか走らないような山奥で、のびのび育ったという。
「出かけた先で汽車を待っていられなくてね。1時間半がかりで歩いて山越えして帰ったりするような、じっとしていられない活発な少女でした。小中学校ではリレーの選手。ハードルや走り高跳びもやったし、バレーボールも本格的に取り組んだ。かなり活躍しましたよ(笑)」
関西に出たのは高校卒業後、18歳のころ。パン好きが高じて大阪のパン屋さんに就職し豊中市にあるスーパーの店舗に配属された。
見よう見まねでサンドイッチを作り、お客さんと会話を交わす充実した日々。寮生活をしていた別所さんは会社のバスで通勤していて、その運転手が後に夫となる勇さんだった。2人はすぐに意気投合し、別所さんが20歳のときに結婚する。
その後、夫が兄の食品関連販売の仕事を手伝うことになり、兵庫県明石市に引っ越し。別所さんも仕事をやめて同行する。同じころには長男・勇人さんも生まれ、2年後には次男・将人さんも誕生。夫が独立して事業を始めるなど、一家の暮らし向きは目まぐるしく変化したが、彼女が明るく気丈に家族を支えた。
次男の将人さんは当時をこう振り返る。
「“昭和の親父”だった父は、僕が入っていたソフトボール少年団のコーチをしていたので、ウチにはいつもたくさんの人が来ていました。オカンも料理を作ったり、世話を焼いたりして、人をもてなすのが好きやった。にぎやかな家だったと思います」
その別所家に異変が起きたのは、'87年9月。夫の勇さんが夜中に突如、激しい頭痛を訴えたことが発端だった。
「救急車を呼んだほうがいいんと違う?」
別所さんは心配して訴えた。だが、夫は「いや、こんな夜中に近所迷惑や。明日病院に行くわ」と軽く受け流した。意識もしっかりしていて歩ける状態だったため、その日は様子を見ることに。翌朝、病院へ行くと、医師が予期せぬ病名を口にした。
「くも膜下出血です」
手術もできないと言われ、動揺するばかり。寮生活をしていた高校3年の長男・勇人さんを呼ぶのが精いっぱいだった。そして翌朝、夫は「子どもたちを頼む」という言葉を残し、43歳の若さでこの世を去った。
「あまりに突然すぎて放心状態。後悔の念にさいなまれました。“もっといい病院に連れて行ってあげていたらよかった”“夜のうちに救急車を呼んだらよかった”という気持ちが襲ってきて、どうにもなりませんでした」
打ちひしがれる母親の姿が勇人さんは今も脳裏に焼きついて離れない。