第一歩は得意の手芸だった。友人が開いた喫茶店で小物を販売してくれることになり、ぬいぐるみやキーホルダー、アームバンドなどの小物を作った。徐々に売れるようになり、生きる喜びを体感できた。最初はイスに数分間座ることも大変だったのに、作業できる時間も長くなる。退院から半年後には鎮痛剤の注射も打たなくなり、やがて外出も可能になった。
卓球と出会い、劣等感がなくなった
エネルギッシュなかつての自分を取り戻しつつあった別所さんが、次に出会ったのがスポーツ。車いすバスケットボールを取り上げた新聞記事を目にして、「自分もやりたい」と意欲が湧いてきたのだ。
兵庫県リハビリテーションセンターの障害者体育館に問い合わせ、見学に向かうと、車イスに乗ってバスケをする選手のイキイキと輝く姿が目に飛び込んできた。「自分もスポーツをやりたい」という感情が込み上げてきた。
「バスケは腰に金属プレートが入っていて難しいし、慣れ親しんだバレーボールは床に座るから負担が大きい。外の競技はムリやし、卓球しかないのかな。そう思って翌週には練習に参加していました」
見よう見まねでラケットを振ると、意外にもうまく球を返せた。歩行機能を失っても天性の運動神経のよさは健在だった。日に日に上達し、試合にも勝てるようになるのがうれしくて、のめり込んでいった。
「“車イスになってかわいそう”“障害があって大変だな”という偏見が嫌で嫌でたまらなかったけど、卓球をしているうちに恥ずかしさや劣等感もなくなりました」
卓球を始めて「社会とつながりたい」という思いも強まった。
生活基盤を確立させる必要もあり、'94年4月には障害者のための技術専門学院に入学。宝飾工芸課で宝石の鑑定やサイズ直しなどを1年かけて学んだ。ほぼ同時期に手動運転装置付き自動車の運転も始めた。勇人さんからは「事故に遭ったらどうするねん」と心配されたが、別所さんは自由に動ける環境を求めた。
だが、学校と卓球を両立できるようになり、迎えた'95年。阪神・淡路大震災が発生して就職環境が一変する。目指していた宝飾関係が難しくなり、知人の紹介でカフェに勤務することになった。
新たな生活がスタートし、仕事と卓球に一層力を入れた。
'94年の国際クラス別卓球選手権初優勝、'96年の故郷・広島での全国身体障害者スポーツ大会優勝と着実に結果も出るようになった。冒頭のママさん教室に通ったり、健常者に車イスに座ってラリーをしてもらったり、練習相手を求めて岡山や和歌山まで足を延ばしたり、卓球教本を読み込んだりと、強くなるためにやれることは何でもやった。「ホンマ、卓球のために生きてると言っても過言ではないくらい」と話し笑顔をのぞかせた。
'99年からは国際大会にも参戦。卓球王国・中国のレベルの高さに度肝を抜かれ、ライバル選手との駆け引きを繰り返しながら「世界のスケールの大きさ」を体感。椿野さんも驚くほどの劇的な変化を遂げていった。
「今月は中国、来月はアメリカと世界を駆け回り、言葉の壁をものともせずに外国の人と仲よくなっていく別所さんを見るたびに心が震えましたね。海外遠征に行くときも得意の手芸で小物を作ってプレゼントしている。気配りもすごいなと思いました」